なぜ「親の会社を継ぐ」ことは難しいのか…「現場からのやっかみ」だけでなく「子どもへの愛情」がギャップを広げる原因にも
自動車業界大手の日産とホンダが事業統合に向けて協議に入ったことが大きなニュースになっている。背景には海外企業による買収の動きもあったという。統合や事業承継など、会社を存続させるための方策は種々あるが、今回は「親から子への事業承継の難しさや問題点はどこにあるのか」を、筆者自身が身をもって体験したエピソードと併せて紹介したい。 【写真】重労働の証…大きく湾曲した筆者の中指と、鏡張りに磨いた金型
ある小さな町工場
筆者の両親は、取引先がくしゃみをしたら地の果てまで吹っ飛ぶような小さな工場を経営していた。大手自動車メーカー、家電メーカーなどから金型を預かり、ミクロン単位でそれを研磨するのが生業だった。通称「磨き屋」。製造業界の中でも非常にニッチな会社だった。 メーカー側が成形した金型を、砥石とペーパーで粗い目から細かい目へと番手 を上げながら磨いていく。最後に仕上げとしてダイヤモンドペーストを垂らした真綿で磨くのだが、空中のチリや鉄粉を巻き込むとすぐに傷になるため、仕上げ時は現場を無風にするべく、掃き掃除や扇風機などの使用は禁止になる。こうした工程を経た金型は、最終的に鏡のようにツルツルに、かつビカビカに光り輝く。 工程の一部では回転工具を使うが、それ以外はほぼ全て手作業だ。 相手は鉄の塊。長いことそんなもの相手にしてきたものだから、筆者の中指は廃業から10年以上経った今でも外側に大きく湾曲している。
磨き屋の娘という自覚
幼少期の記憶に、スーツ姿の父親は一切ない。朝から晩までずっと作業服で、父が行くところはどこも鉄粉と油とたばこが入り混じったにおいがした。 一方、母は作業場の隣の事務室で経理をしたり、職人たちの面倒を見たりしていた。 当時、工場にいた女性は母のみ。最盛期35人いた働き盛りの職人たちは、30~50代前後の男性ばかりだった。 残業する彼らのために、母は毎晩のように工場内にあった卓球台に食べきれないほどの夜食を並べる。筆者が通っていた私立小学校は工場から近く、周辺で習い事をいくつもはしごした後はよく工場に寄っていたので、筆者も彼らと同じ釜の飯を食った。 顔もマスクも真っ黒になって社長室に戻ってくる父は本当に格好よかった。 火花にも怪我にも動じない彼の姿に、筆者自身にも知らぬ間に「磨き屋の娘」という自覚と誇りが芽生えていたのだろう。学校の社会科見学先がたまたま工場の得意先だったことがあったのだが、同級生が「こんにちは」と挨拶するなか、自分だけ顔見知りの工場長に「いつもお世話になっております」と頭を下げていた。