二十歳のとき、何をしていたか?/あいみょん たった1本の動画が運命を変えた。 西宮からトラックで上京し、 曲を書き続けた夜明け前の上町。
上京後もバイトと路上ライブ。曲を作り続けた上町の日々。
「めっちゃ急やったんですよ。『数か月後に東京だから』って言われて。え? え? って。お金もないから伯父さんにトラックを運転してもらって。出発の日は友達が見送りに来てくれて、トラックの前できょうだい揃って写真を撮りました。ずーっと泣いてた。でもすぐ関西のライブで帰ったんですけど(笑)。あの感動なんやったんくらいの感じで頻繁に帰るっていう」 ライブがあれば帰ったが、寂しさは募る。大家族育ちのあいみょんさんにとって、「一人暮らし」は微かな憧れだった。でもそれより家族がいない寂しさが上回った。 「大家族がコンプレックスやったこともあったけど、そんな自分が憎く思えるほど、家族の存在が大きいと気付かされました。でも音楽やりたいし、姪っ子たちの自慢のおばさんになりたいし、自慢の娘になりたいと思ったから、頑張らないとなあって」 住んだ町は、世田谷区の上町。漠然と梅ヶ丘と豪徳寺に憧れたが、二口コンロが諦めきれず、妥協を経て決めた町だった。デビューはしても、バイトをしないと暮らせない。関西では競馬場の飲食店でバイトをしていたので、東京競馬場や大井競馬場の系列店で働いた。路上ライブも継続し、渋谷のQFRONT前で歌った。ポジティブなあいみょんさんも、当時は悶々としたという。 「悔しかったですね。なんでこっち見いひんねやろうって。家ではバンドアレンジを覚えなきゃいけなくて、譜面見るのも嫌で床に投げつけて。前を歩く人が優越感に溢れて見えて、全員コケろと思ったこともあります。今に見てろよ、絶対売れてやるからなってメラメラして。いつか必ず音楽が自分の人生を変えてくれる! と信じる想いと執念が、私の体を簡単に西宮に帰さなかったんだと思います」 知らない町だった上町も、夜は人がいなくなり、バスは始発で渋谷まで座れる。生活を重ねるうち、じわじわと好きになった。 「全くの無名でしたから、曲を作って作って貯金していくしかないなと思ってました。20代前半で作った曲は財産です。『君はロックを聴かない』も上町産ですよ」 やがてその曲がラジオでヘビーローテーションされると、世間でふつふつと話題になり、爆発。上町での日々は、あいみょんの夜明け前だ。二十歳という怒涛の1年間を振り返り、あいみょんさんは最後に同窓会の思い出を話してくれた。 みんな大学生で、私は高校も中退して音楽をやっていて。集まった同級生や先生に『音楽やってんの?』『お前にできんの?』といじられて、ふざけんなと思いました。絶対こいつらと一緒になりたくないと思って集合写真にも入らなかった。それが甲子園球場の近くのレストランやったんです。でも、その甲子園でワンマンライブもできたし、悔しい気持ちは報われました。音楽続けててよかったって思います」