厳しい眼光に苦み走る表情、戦国武将・藤堂高虎の素顔か 重臣家に伝わる幻の肖像画発見
江戸後期には、伊藤家が高虎画像をどのような経緯で寺に預けたのか分からなくなってしまうことを懸念し、伊藤家当主が、高虎命日の参拝に息子を連れていきたいと寒松院に願い出ていることも読み取れるという。
宇野さんは「高虎画像は伊藤家にとって、『家』の由緒の正統性を示すものであった」と指摘する。
■石水博物館で初公開
『三重県国宝調査書』(昭和13年)によると、高虎の居城であった津城跡に明治9年に創建された高虎を祭る高山(こうざん)神社に納置するためとして、同10年に高虎画像は伊藤家に返却されている。
伊藤家本は、果たして寿像か。宇野さんは「伊藤兵庫への寿像の下賜が事実であれば、伊藤家はその認識で崇拝し続けたのだろう。ただ寒松院に預けることで一時的に伊藤家の手を離れており、預け入れ前と返却後のものが同一であるかは、文献史料のみでは判別が難しい」と話す。
伊藤家本は1月19日まで、石水博物館の企画展「津藩校 有造館と齋藤拙堂」(年始は4日から開館)で初公開中だ。展示を担当する桐田貴史学芸員は「寿像であれば大変貴重な発見。美術史、文献史学の双方からの研究をまちたい」としている。
■藤堂高虎 近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県甲良町)の土豪出身。はじめは北近江の浅井長政に仕え、主君を7回変えた「渡り奉公人」として知られる。豊臣秀吉の弟、秀長に見いだされて豊臣大名となり、最後は徳川家康を主君に選び関ケ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げる。津城と伊賀上野城を拠点に外様大名ながら家康に重用され、江戸時代の城郭スタイルを確立した築城家として名高い。(川西健士郎)