1年春から登板も“破壊”された右膝 「何回も辞めようと…」治らぬ怪我に溢れた涙
中田良弘氏は横浜高1年夏の練習試合で右膝を怪我…完治せぬまま復帰した
阪神で先発でもリリーフでも活躍した右腕・中田良弘氏(野球評論家)は、横浜高時代に万全な状態で戦えなかった。1975年の高校1年夏の練習試合で右膝を故障。完治しないまま復帰して投げており「疲労が出ると痛みもあった」という。そんな中、絶えずライバル視していたのが東海大相模だ。6-5で勝利した1年秋の神奈川大会準々決勝で、1学年上の原辰徳内野手(元巨人)から三振を奪ったのは思い出の一コマにもなっている。 【動画】グラブ投げつけ、椅子転倒で絶叫 日本人メジャーリーガーに米ファン怒り「何なんだ」 横浜高では入学早々の1年春の神奈川大会、関東大会で登板するなど、いきなり存在感を見せていた中田氏だが、3回戦敗退で終わった夏の神奈川大会後の練習試合でまさかのアクシデントに見舞われた。「横浜高校のグラウンドで、相手はどこだったか忘れましたが、自分が二塁打を打って出塁したんです。そしたら二塁に牽制が来て、送球が悪くて(相手野手に)乗られたんですよ。それで右膝を痛めたんです」。これが高校生活に暗雲をもたらした。 「それから全力で走れなくなりました。いろいろ治療したけど(全力疾走は)無理でした。全然、筋力も落ちて……。何回も野球を辞めようと思ったし、普通だったら辞めていたんじゃないですか。なんでやっていたんだろうなぁ。まぁ自分の判断だったと思いますけど……」。結局、完治しないまま復帰。1年秋の神奈川大会からはマウンドにも上がるようになった。「長いイニングは投げないとかいろいろ配慮されてね」。 投げ込みはできなかった。「軸足だったし、だんだん疲労が出ると痛みも出ましたね。まぁ、それでも投げていましたけどね。公式戦で打っても全力では走らなかった。走れなかったですからね」。1年秋は2番手投手の立場でベンチ入り。横浜高は神奈川大会準優勝で関東大会に進出した。中田氏はその神奈川大会の準々決勝で東海大相模に6-5で勝った試合が印象深いという。「その時に原さんから2三振をとったんですよ。それは覚えていますね」。 当時の東海大相模は1974年夏、1975年春、夏と3季連続で甲子園に出場中。1年時から活躍する主軸打者の原は甘いマスクで人気も絶大の高校球界のスーパースターだし、スラッガー・津末英明(元日本ハム、巨人)、左腕エース・村中秀人ら実力者揃いで、この秋も優勝候補だった。横浜にとってはその年の夏の神奈川大会3回戦で敗れた相手でもあり、絶えず意識するライバル校。準々決勝での勝利は、東海大相模の4季連続甲子園の夢を打ち砕くものでもあった。