全国に波及した「福岡モデル」の裏側 「生みの親」が語った背景や経緯 福岡県タレント発掘事業からパリ五輪に8人
日本で初めてのアスリートのタレント発掘事業が福岡県から動き出して20年。パリ五輪には8人の修了生が日本代表に加わっている。子どもたちに複数の競技を体験させながら適した競技を見つけて能力を伸ばすシステムは「福岡モデル」として全国から注目され、日本各地に広がった。「金の卵」を生み出すこの事業、なぜ全国に先駆けて福岡から動き出したのか。東京運動部の記者時代に「生みの親」に取材したことがある。 ■美しく輝くエッフェル塔、パリ五輪開会式中の街の様子は…【写真】 2004年当時、東京・国立スポーツ科学センター(JISS)のスポーツ情報部にいた和久貴洋さんだ。五輪での日本の金メダルは4個だった1988年のソウル五輪以降、92年バルセロナ3個、96年アトランタ3個、2000年シドニー5個と低迷していた。そこで国がJISSを01年に設立し、和久さんは素質のあるジュニア世代の発掘・育成を任されていた。 世界で盛んになっていたタレント発掘事業を研究。02年にモデルを固めて事業化を提案したが、手を挙げたのは福岡だけだった。なぜか。部活動中心の日本の育成システムとは違う先例のない取り組みで、競技、地域、学校の壁をまたぐ上、選手を他競技に奪われかねない懸念を抱く指導者の理解や協力も不可欠。ハードルが高かったからだ。 事業の活動拠点となった福岡市博多区の県立スポーツ科学情報センター(アクシオン福岡)では、少子化が進む中でのアスリート育成方法の重要性などを研究していたという。和久さんは「先進的な考えを受け入れる土壌があった」と感謝していた。測定項目や数値の判断など選考基準や進め方の助言を受けるため、JISSは先進地オーストラリアの専門家を招き、福岡県に派遣するなど試行錯誤する面もあったが、それも織り込み済みの柔軟な対応だったという。 全国各地の広がった発掘事業の制度設計にも貢献した「福岡モデル」。九州でも「宮崎ワールドアスリート発掘・育成プロジェクト」や「ながさきスーパーキッズ育成プロジェクト」、「サガスカウト」、「チーム大分ジュニアアスリート発掘事業」、「くまもとワールドアスリート事業」などが動いている。 私が取材したのは7年前。既に軌道に乗っていた。和久さんは「日本のスポーツ界を変える起爆剤になった。パイオニアとして果たした福岡の役割は大きい」とたたえていた。確かに、さまざまな競技をしたい子どもたちのスポーツの選択機会と場を広げたのは間違いない。自らの可能性を気づかせてくれ、例えば居住地に自らに適した競技の活動がなかった子どもに再チャレンジの機会も生まれた。 多くの子どもにとって、スポーツに触れる最初の機会は身近な居住地に影響される。「スポーツ少年団や部活動で能力を評価されなければ、トップアスリートの道がなかなか開けなかった」と和久さん。少子化が進む現状ではなおさらだろう。 生みの親として「修了生が五輪でメダルを獲得するのが夢」と目を細めて語っていた和久さんの笑顔が印象的だった。修了生から初めてオリンピアン3人が誕生した東京五輪では持ち越しとなった。今回は修了生が8人。今度こそ―。晴れ舞台で表彰台に乗るか注目していることだろう。(大窪正一)
西日本新聞社