ジャイアント馬場に「あんたの力が必要だ!」と懇願された名レフェリー「ジョー樋口」がスキンヘッドになった深い理由
「日本に行ったら、ジョーを頼れ」
今年は、ジャイアント馬場の没後25年。各地でメモリアル展などがおこなわれたが、1999年1月に没した際、馬場が興した全日本プロレスを退団した人物が、主だった人物が2人いた。1人は愛弟子のプロレスラー、ジャンボ鶴田(同年3月に引退)。もう1人が、レフェリーのジョー樋口だった。 【写真特集】ジョー樋口を口説き落としてレフェリーに迎え、全日本プロレスを大成功に導いたジャイアント馬場の秘蔵写真!!
ジョー樋口といえば、レフェリーでありながら選手に巻き込まれる形で失神してしまう場面が多かったことで有名である。椅子による攻撃をかわした選手の軌道上にいて、もろにフルスイングで椅子を食らったり、ブレーンバスターで投げられた相手の足が後頭部を直撃したり、3カウントを跳ね返された選手が反動で樋口に覆いかぶさったり……果ては、フリッツ・フォン・エリックの乱撃を止めようとしたところ、得意技のアイアンクロ―で顔面を掴まれ、そのまま投げられたことも。スキンヘッドもトレードマークだったが、得てして、自毛だった方がダメージは少なく済んだはずだ。 馬場が全日本プロレスを旗揚げしたのは1972年10月22日である。樋口のスキンへッドは、その旗揚げ以降、逝去時まで続いた。というのも、全日本プロレス旗揚げまでは、スキンヘッドではなかったのだ。樋口がスキンヘッドに込めた真実について綴りたい。 樋口は、もとはプロレスラーだった。柔道2段の腕前を活かし1954年、柔道6段の猛者、山口利夫が率いたプロレス団体、全日本プロレス協会(※後の全日本プロレスとは無関係)でデビュー。同団体崩壊後、4団体参加の「ウェイト別日本選手権」のライトヘビー級部門で4位となると、その実力を買われ1956年、力道山率いる日本プロレスに移籍する。その命運が変わり始めたのは翌57年の、広島県呉市大会でのことであった。旅館に泊まった外国人選手に提供する大量の食事に、同僚が頭を悩ませているのを見て、樋口は言った。 「俺が作ってやるよ」 実は樋口の実家は洋食材の問屋であり、しかも場所は横浜市の本牧だった。幼い頃からコーヒーをたしなみ、物心ついた時には、好きな音楽としてジャズを聴いていた。洋食調理の腕に覚えがあるのはもちろん、周囲には外国人が多数住んでおり、英語もお手のものだった。噂を聞きつけた力道山は、周囲の推挙もあり、樋口が選手兼外国人レスラーの世話係になることを応諾。それどころか、樋口がつくった巨大なステーキや大量のポテトサラダを見て、こう口にしたという。 「俺にも作ってくれ」 実のところ、1959年には選手としての限界を感じ、樋口は引退を決意。日本プロレスを退団している。水商売を始めるという樋口に、力道山はこう声をかけた。 「気が変わったら、いつでも戻って来いよ」 実際、商売は3年持たず、樋口が復職を打診すると、力道山は快諾し、外国人の世話係に任命。堪能な英語を活かし、外国人勢の信頼も得て2年後の1965年には、レフェリーも兼務することになった。ジョー樋口の、完全なる裏方人生が始まったのである。 1960年代の日本は、外国人勢にとってまだまだ遠い国だった。彼らは旅館の部屋に土足で入り込み、湯船の中で石鹸を泡立て、和式トイレを汚した。そうしたトラブルに一つ一つ対処し、2度としないよう諭した。団体行動に慣れていない外国人には、列車での移動の際いマナーを守らせるため、時には喧嘩腰で言い聞かせた。樋口は9人兄弟の長男。和を乱す選手には厳しさを忘れなかった。 だが、それより大変だったのは、ホームシックにかかる外国人が多いことだった。生気のなさは、リング上の盛り上がりに水を差す。そのレスラーの故郷ゆかりの食事を調べて作ってやり、特産品や音楽を探してやったりもした。 いつしか、外国人勢は、海の向こうで、こう教え合うようになった。 「日本に行ったら、先ず、ジョーという人間を頼れ。そうすれば大丈夫だから」 初来日時に世話をしたレオ・ノメリーニは、帰りの空港で涙を流しながら樋口の手を離さず、御礼を繰り返した。“鋼鉄男二世”と言われたテッド・デビアスは初対面で、「あなたのことは父から聞いています。日本では何でもあなたに相談しろ、と言われました」と挨拶した(※父親は同じプロレスラー、マイク・デビアス)。 自分がまだレスラーだった時代にデビュー戦の相手を務めた大木金太郎は、樋口がレフェリーに転じてからも「お兄さん、お兄さん」と頼って来た。そして、「韓国に帰りたい……」とよく涙し、その度に勇気づけた。 レフェリーとして、さらなる向上への努力もかかさなかった。「自分から攻めることはないけれど、やられることはある」と受け身の練習に没頭し、ジャイアント馬場に、「選手時代より、受け身が上手くなってる、下手な選手より、よっぽど良いよ」と言われたのは序の口。背後にリングサイドに詰める取材カメラマンの気配を感じると、撮りやすいように逆に移動した。 若いファンからすると、フォール・カウントが遅めに感じたかもしれないが、その秒数は、ほぼ正確に1秒であった。常に猫背気味で目立たず、レスラーを引き立たせるレフェリング。試合がグラウンド状態になると、手を突き出し、自ら大きな身振りで、「ワッチャ、ギブアップ? (Watch out give-up? )」と選手に聞いた。膠着状態の中、観ているファンを飽きさせない意味合いもあった。 堅実なレフェリングぶりは海外へと轟き、1967年にはアメリカの有名プロモーターらに請われ、全米各地をサーキット。11か所でメインエベントのレフェリングを任された。帰国する際は表彰状まで用意されていた。樋口のレフェリングは、裏方ながら、世界に通じるプロの技だったのだ。