ジャイアント馬場に「あんたの力が必要だ!」と懇願された名レフェリー「ジョー樋口」がスキンヘッドになった深い理由
ジャイアント馬場の懇願に……
だが一方、力道山亡き後の日本プロレスは、その杜撰な運営ぶりから、徐々に斜陽化して行く。1971年末には、経営の透明性を追及しようとしたアントニオ猪木を追放し、翌年7月にはジャイアント馬場も退社する。スポーツ新聞の紙面には連日、日本プロレスの経営陣の醜聞が踊った。昭和一ケタ生まれ(昭和4年)の樋口にとっては、そういう会社に居ること自体が恥ずかしいこととなった。 意を決し、永住権取得も視野に入れ、アメリカでレフェリーとして食べて行きたい旨を現地の関係者に告げると、皆、「すぐにでも来て欲しい」と、諸手を挙げて大賛成してくれた。だが、1人だけ猛反対した人間がいた。その人物から電話がかかって来たのは、日本プロレスの退社手続きを済ませ、渡航ビザ取得の手続きに入った直後だった。 「すぐに会いたい」 ジャイアント馬場だった。いざ対面すると、馬場は懇願した。 「自分の団体を作りたい。外国人との交渉も含め、手伝って欲しい」 「しかし馬場さん、私はもう、アメリカの団体に『行く』と約束をしてまして……」 「日本のプロレスの灯を、消したくないんだ……」 「……」 「あんたの力が、必要だ……!」 「……」 直後に樋口は自費で渡米。世話になるはずだったアメリカのプロモーター達に、こう言って回った。 「こちらで生活するつもりだったが、日本の馬場さんの団体に協力することになった。今日はそれを詫びに来た。申し訳ない。これが、日本流のお詫びの仕方だ」 樋口の頭は、綺麗に剃り上げられていた。 これが、ジョー樋口が、スキンへッドとなった理由である 海外との縁は、途切れなかった。1974年6月14日の午後、視察と親睦のため、アメリカ・セントルイスの大会場、キール・オーディトリアムに着いた樋口は、当時の世界最高のプロレス組織である、NWAの関係者に問われた。 「レフェリングの用意は、持って来ただろうな? ユーにはメインのNWA世界ヘビー級選手権を裁いてもらう。NWA会長からのライセンスも既に届いている」 それは、日本人としては初めてとなる、「NWA公認レフェリー」となった証しでもあった。急いでレフェリング衣装をホテルまで取りに戻り、メインの王者ジャック・ブリスコvsドリー・ファンクJr.の3本勝負を裁いた(1vs1から時間切れ引き分け)。キール・オーディトリアムは約1万人を収容出来る大箱で、超満員の中でのレフェリングを、樋口自身、「一世一代の晴れ舞台」と振り返っている。