【証言・北方領土】歯舞群島 水晶島・元島民 柏原榮さん(2)
―お父さんは富山出身で。 ええ、富山出身です。 ―お父さんの代に水晶島に来た? そうです、そうです、そうです、そうです。大正の10年代ですね。10…大体、長男坊がそのころ出生してるからね、だから大正10年前後に水晶島に渡って昆布漁をやった。結局、何ちゅうか、富山県入船出身なんですけどね、入船町吉原っちゅってね、水晶島に渡ってきた。歯舞群島は生地が多いのかな、黒部とかね。入船は、そんなにいないんですけど、やっぱり、その辺は、ね、先に行ってる人がいて、もう出稼ぎに行って、そこへ落ち着いて、こんな、何ていうかな、安定した生活はないっちゅうか、収入が多いところはないというようなことで住み着くってちゅうか。 富山ってところはね、貧乏な県として知られていたんですけども、二、三男坊は、みんな外へ出て、もうほとんど、東京、大阪に出て、あるいは勉強してね、優秀な人っちゅうか、日本を代表するような人もたくさん出てますからね。根室にも、例えば富士銀行の頭取なんかも富山出身だしね、私の遠縁に当たるのは東京では結構大きな会社をね、つくって、その三男坊は芥川賞もらって。早死しちゃったけどね、38歳ぐらいでね。亡くなったんですけどもね、長男は日本郵船ですね。船会社、おやじさんやってましたからね、そういうことで。おやじさんも若死にです。早くして、重役、丸の内で重役会議してたかな、そのときにぽっくり脳溢血で倒れた。そういうね、血統なんですよ。だから、おやじもね、引き揚げてきてから54歳でなくなったんです、早死ですね。
漁業で成功した父
―お父さんも長男ではなかった? そうですね。結局、地主だったんですけどもね、それは長男が引き継ぐわけでしょ。ね。土地は与えられるけれども、ね、そんなもんじゃ生活っちゅうかね、それで、まあ、一攫千金の夢を見て渡ってきたっていうかね。土着をしたんですね。 昆布をやって、昆布の季節っちゅうのありますからね、ほいで、いろいろと、何ちゅうか、商売好きだったのかね、ケイサン、ホタテ場をやって、フジコ場をやって、結局、ホタテ、フジコっていうのはね、大正の元年ごろからかな、中国輸出の商品だったんですよ。それで豊かんなってくんですね。フジコっちゅうのはね、中国では食品として高級なあれですからね、だから、ちょうどタイミングがいかったのかな、そういうね。 昭和の時代に、まず昭和16年の第二次世界大戦ごろになると、結局、若い人たちはみんな兵隊に取られていって、労働力はほんとにね、高齢化してくるのかな。当時でいえば、人生50年って言われてたからね、そのころね。今から85年、80年ぐらい前はね、そうですね。だから、隣のおじさん、30代でも、我々から見ればおじいちゃんのように見えたのかもしれませんね、子供のころね。そういう時代、起伏のある生活だったんですけどもね。