【証言・北方領土】歯舞群島 水晶島・元島民 柏原榮さん(2)
そして、私の記憶では、何っちゅうんだい、櫓櫂船っていってね、昆布とるのにね、櫓櫂船で昆布をとるんですよ。動力船じゃなくて、櫓でこうこいでって。それで、納沙布、そこまで早く行くためには、引き船っちってね、その隣近所の船を引っ張って、その漁場まで行くんです。満載したら、その人たちは自分で帰ってくるわけさ。朝の5時ごろ出てって夕方に帰ってくるね。そして、昆布をあげるっていうか。昆布とれる期間っちゅうのは5月の半ば過ぎから8、9月の半ばまでかな。定期的にね。 ―お兄さん2人は無事帰ってこられましたか? はい、そうそうそう。帰ってきて、ですね。来て、富山のほうに行きましたけどね、兄貴は。 ―島に残った両親や兄弟とは年を越して久しぶりに顔合わせた? そうです、そうです。島から来たのは、前の年の10月の終わりか、11月の初めごろだと思う、嵐の中を来たっていうからね。そして、1冬越して、私が会いに、そういう情報を得て、会いに行ったのが3月。 ―情報を得たっていうのは?手紙とか? 私のおじが別海という、今、別海というんですけどね、中春別というところにいたんですよ。何ちゅうか、それの、おじの妻のうちは、妻の姉のうちはですね、旅館だとか材木、材木商っちゅうか。何ていうか、製材所、それから、森林結構持ってたんですよね、森林、別海にね。ですから、営林署の職員が1人駐在して、旅館もやってましたから、そこに駐在して、よく、そこへ学生時代遊びに行きましたけどね。そういうことで、この森林の管理、炭焼きもさせてましたからね、森林で炭焼き、その管理も島にいたの、島から戦前、終戦前に、もう引き揚げてきて、その中春別というところでそういう商売をしてたんですよ。そっから学校に通ってたのでね。そこへ連絡が、弟のところにあって、会いに行ったと。
「米・味噌・醤油」の蓄えはあった
―3月に再会。終戦のその時期は食糧難だったと聞くがどうでしたか? そうですね。でもね、逃げてくるときにね、どこの船もそうだけども、米、味噌、醤油、これをね、船にもういっぱい積んで。あるもの全部。大体、島で仕事をしている人たちっちゅうのは、3年から、長い、あるっては、5年ぐらいの、3年ぐらいの蓄積はあるんですよ。長いところでは5年ぐらいの蓄積、米、味噌、醤油は蔵に置いてあるんです。やっぱり越冬するときには、春先なんなかったら船で根室に通えないでしょ。だから、越冬するための準備、それから、若い人たちの食料、そういったものを倉庫に全部入れてあるんですよ。だから、そういうものを皆積んで、そして来たんですね。 だから、私が根室で下宿したときなんかは、下宿屋さんはお金はもらってもしようがないっていうので、結局、米、記憶ではね、お米を下宿代で、当時、何ぼだったのか、25円かそこらだったかな。昭和十七、八年ぐらいの下宿代ね、25円。大人って、先生方が30円だっちゅうてましたから。よく先生んところに、来い、来いって遊びに行って、下宿してた夫婦もいたんです、部屋借りて。下宿してた先生は「大体、何ぼ払ってるんだ、下宿代」って「いや、下宿代は米なんだ」「ああ、そうか」とかっちゅうてね、それで、大体30円、28円か30円ぐらい払ってたね。そのころの教員の月給が35円とかって聞いてたけどもね、35円。想像つくね、35円なんていうそういう時代ね。 そういうことでね、お米を下宿代に払ってた。だから、何ていうかな、下宿するのはね、喜んでたんですね。釧路では、自炊したからね、米持って、米もらって、その米を持ってって、そして、自分で自炊をするっちゅうか。あと、ねえ、野菜ものとか魚はさ、買って、自分で料理すればいいわけですから。 ええ。そういう連中が多かったですよね。それで、自分のうちから通ってる連中なんかは、たまに弁当におかず持ってきてくれたりしてね。 そういう生活でしたけど、食糧難ではあったけれども、そういう点で、ひもじい思いをしたっていうか、確かにご飯の中に昆布、昆布ご飯、昆布が刻んだやつが入ってたりね、豆ご飯っていうのあったんですよね。だけども、豆ご飯は、根室で豆ご飯、下宿で食べたときは、豆にご飯がひっついてるっちゅう感じだったな。帯広で学徒動員行ったときも、そう、あ、帯広だったな。学徒動員行ったときにね、ご飯、豆ご飯の飯が出るんですよ。 そしたら、豆にさ、コテボって言われて、白い、白っていうか、ちょっと黄色っぽい、そういうちっちゃな豆に、ご飯がひっついて、胚と一緒のやつだな。それから、だんだん、そのコテボじゃなくて、もっと大きなね、豆、いわゆる茶褐色の、茶色の豆で大粒のあるんだ。それにはね、ご飯がひっついてる。だからね、寮生はさ、もう、汚い話だけども、ご飯食べ終わったら、もう、みんな、ま、トイレが続くのさ。シャーッ。ね、そういう状態で、食料難っていうのは学徒動員に行ったときから始まったね。 いや、だから、もう戦争終わりごろは、もう帯広でも、帯広は豆の宝庫だったからさ、だから、豆を主にして、ご飯がそういう状態だったのかね。そういう経験はあります。1年間。1年間ですね。