ピーコの最期を「寂しい」「つらい」と表現する報道に、ゲイの僕が抱いた「違和感」
「ピーコ像」に近づいている今、思うこと
そんな僕は現在39歳で、恋人はいない。かつて避けていたピーコのような立ち振る舞い──フェミニンな話し方や動き方──を特に気にせず日常の中でしている。幸いなことに僕には同世代のゲイ仲間がいて、彼らの多くも独身であるが、それぞれ楽しい日々を送っている。それでも、もし僕たちが今亡くなったら、パートナーも子供もいない孤独な人生だったと言われるのだろうか。かつての自分だったら、あぁ孤独だね、と言っていたかもしれない。いくつもの記事がピーコに対して綴った「寂しい」「つらい」「非業」という言葉を自分自身にも当てはめながら。 今の僕は、昔あれだけ離れようとしていた「ピーコ像」へと近づいていっているわけだが、寂しくもなければつらくもない。人生のパートナーと呼べる恋人も、自分でつくった家族もいないが、一緒にこの社会を生きている仲間や友人たちが大きな意味での家族なようなものだと感じている。そういった心境にこの年齢でたどり着けたのは、ピーコのような人が道の先をずっと歩いていてくれたおかげかもしれない。 ピーコがメディアに出なくなってからも常にどこかで見かけているような気がしていたのは、その存在感や影響力を、この社会のいたる所に見ていたからだった。ピーコには血筋を継ぐ子供がいなかったかもしれないが、その存在を引き継ぐ無数のものたちは今も確かに生き続けている。それは社会変革の一場面だったり、もしくは僕自身の人生だったりする。自分もいつかこの社会の誰かに何かを遺せるだろうかと問いながら、ピーコの切り拓いた道を歩いている。
富岡 すばる(ライター)