『創建』の謎に迫る 熊本地震で被災した熊本城の国の重要文化財・宇土櫓を完全解体しての復旧工事 カギを握る『埋没石垣』は発掘調査で出てくるのか
熊本地震からの復旧のための解体が行われている熊本城宇土櫓。この宇土櫓は、いつ建てられたのかなど、創建については分かっていない。今回、工事と並行して行われる調査で、この謎に迫る発見も期待されている。 【画像】『埋没石垣』が露出するのでは?と期待されている場所
『第3の天守』とも呼ばれる宇土櫓
国指定の重要文化財で、第3の天守とも言われる宇土櫓は2016年の熊本地震で隣接する続櫓が倒壊したほか、柱や床が傾くなどし、建物すべてを解体したうえで再建されることが決まっている。修復のための解体開始から1年、12月に宇土櫓を訪ねた。 郡司琢哉アナウンサー --今行われているのは石垣表面の築石を1個ずつ撤去することとその内側にある部分の調査ですか? 熊本城調査研究センター・網田龍生所長 --そうですね、築石を外したら、それに合わせて栗石も取り除いていきますので、栗石をどういう風に詰めているのかとか、技術的な記録もしていかなきゃいけないので、本当に発掘調査するような感じで下げていきます 郡司琢哉アナウンサー --記録上この場所が大規模に掘られるというのは過去にあったんですか? 熊本城調査研究センター・網田龍生所長 --いえ、初めてだと思います
発掘調査で『埋没石垣』が露出するか
続櫓下の石垣は熊本地震で膨らみが出て、崩落の危険性があったことから積み直しに向けた解体が11月から行われている。そして、解体と同時に始まった石垣裏側の発掘調査で新たな発見が期待されている。 熊本城調査研究センター・網田龍生所長 --こちら(宇土櫓西側)と石垣の位置が違いますのでもしかすると古い時期にはこの石垣(数寄屋丸西側)がまっすぐ伸びていて宇土櫓の今見えている石垣の裏側に『埋没石垣』として存在しているんではないかと考えています 郡司琢哉アナウンサー --え…、『埋没石垣』ですか 『埋没石垣』とは何らかの理由で埋められた石垣で、城内では熊本地震後『埋没石垣』が発見された例があった。 それは今から5年前。場所は『奇跡の一本石垣』として知られた飯田丸五階櫓だ。飯田丸の原形となる石垣は、熊本城大天守台が造られた1599年頃築かれた。 やがて加藤清正の死後、小天守台が築かれた1612年~1615年頃になると飯田丸五階櫓を建てるため、土地を拡張する必要があり、外側に新たな石垣が築かれた。 そして、熊本地震で石垣が崩落し積み直しに向けた栗石撤去の過程で、約400年間、土の中に埋まっていた石垣が露出したのだ。 話を宇土櫓に戻すと、石垣の積み方の特徴から、数寄屋丸西側と平左衛門丸北側は大天守台と同じ1599年から1600年に積まれたとみられ、現在の宇土櫓の北側と西側の大部分は小天守と同じ1611年から1624年にかけて積まれたとみられている。 つまり宇土櫓が、飯田丸と同じように五階櫓を建てるために石垣の拡張を行ったとすれば、「今回の発掘調査で『埋没石垣』が露出するのでは」と考えられている。 郡司琢哉アナウンサー --楽しみですね 熊本城調査研究センター・網田龍生所長 --それが見えますと大天守だったり、ほかの古い時代の石垣と同じ積み方をしてくれていると、清正の最初の城造りの様子が分かりますし、内側の栗石を確認したりすることで、いつの時代にどういう段階で拡張してきたか、今ある宇土櫓がどの時期にここに建てられたのか、そういったことがこの石垣の調査からも分かってくると期待しています