「このまま引退かも」から2年…藤井聡太を返り討ち「ベンチプレス100キロ、握り寿司+鉄火巻で2人前」“筋肉隆々の羽生世代”丸山忠久の素顔とは
米長が「そんなバカな…」と口にしたこと
丸山は84年8月に中学生名人戦で優勝した。そうした実力があったのに、同年10月の奨励会試験でまた落ちた。しかし研修会でAに昇級し、85年1月に奨励会に6級でやっと入会できた。ちなみに藤井と三浦弘行(現九段)も丸山と同じく、奨励会試験に落ちて研修会から奨励会に入り、後年にタイトルを獲得した。 丸山が奨励会に入ったとき、兄弟子に当たる米長邦雄三冠は師匠の佐瀬八段にこう言われた。 「丸山はタイトルを取るよ」 米長が「ものすごい天才ですか」と聞くと、奨励会試験に2回も落ちたという。米長は「そんなバカな……」と思った。しかし、丸山はそれから15年後に名人を獲得し、佐瀬の慧眼ぶりが証明された。 85年2月の時点で、丸山6級と同世代の羽生善治は二段、佐藤康光は初段、森内俊之と郷田真隆(いずれも現九段)は1級だった。その後、羽生、佐藤、森内は10代で棋士になり、公式戦で早くも活躍していた。
早大を4年で卒業も「羽生世代」では遅れを取った
丸山は三段時代の89年4月、早稲田大学社会科学部に一芸入試で入学した。ある講師の話によると、授業に欠かさず出て最前列でノートを取っていたという。2年生からは棋士と大学生を両立し、留年しないで卒業した。 丸山は2期目の三段リーグで14勝4敗の成績を挙げて1位となり、90年4月に四段に昇段して19歳で棋士になった。当時の将棋雑誌には、記者の質問に答えて次のようなコメントが載っている。 「大学の友人と遊ぶことはありません。音楽は聴きません。読書は目が疲れるからしません。将棋の実戦も三段リーグ(月に4局)以外は指しませんでした。詰め将棋はよく解きます。あれは図形の問題をやっているようなものです」 自分の考えを貫いて無駄なことはしない、という合理的な精神を、棋士になってからも通していった。 丸山は棋士としてのスタートラインで、同じ「羽生世代」の棋士たちに後れを取った。しかし、棋士になってからは各棋戦で活躍した。公式戦の年間勝率は90年度から10年連続で7割~6割台で、94年には24連勝を達成した(当時は歴代2位)。
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