これぞ「大阪の情」やわ!元禄時代から続く人形浄瑠璃文楽に浸る
幾多の苦難を経て、国立文楽劇場が誕生
その後、御霊神社(ごりょうじんじゃ)境内に座を構え、興行を続けていたが、1926(大正15)年の火災により御霊文楽座は焼失する。1930(昭和5)年、近代的な洋風建築の四ツ橋文楽座が造られたが、こちらも1945(昭和20)年3月の大阪大空襲で焼けてしまった。 戦後の1956(昭和31)年、道頓堀に文楽座が開場するも、会社側と労働組合側に技芸員らが分裂。興行成績が悪化する中、1962(昭和37)年、松竹が文楽座の経営を手放したことを受け、翌1963(昭和38)年、国(文部省)・大阪府・大阪市・NHK・関西財界の支援を受けて財団法人文楽協会が発足する。 そして、悲願であった文楽の本拠地・国立文楽劇場が1984(昭和59)年、日本橋に誕生した。現在は1月、4月、7~8月、11月の定期公演と6月の文楽鑑賞教室が行われている。
文楽の「芯」は、大坂ことばの義太夫節
1955(昭和30)年、文楽は歌舞伎や能に先立ち、雅楽と共に国の重要無形文化財に指定される。2008(平成20)年には、ユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された。 それらに指定・記載された理由として、江戸・元禄時代からの竹本義太夫・近松門左衛門の流れを正統に継承していること、太夫・三味線・人形遣い、三位一体の舞台芸術であり、それぞれの洗練された技巧が素晴らしいことなどが挙げられる。だが、ここでは、太夫と三味線弾きが演奏する「義太夫節」に注目したい。 義太夫節は、物語の進行や情景、全ての登場人物の台詞や心理状態、感情を原則一人で語り分ける。腹の底に響くような重低音から高音まで、幅広い音域を縦横無尽・緩急自在に遣いこなし、極めて写実的に物語を謳いあげる。 ドラマチックでダイナミック、ねっとりと、かきくどく=訴えかける力が強い。歌あり、早口の台詞ありで、今で言うなら、一人ミュージカル?あるいはロックにラップを入れて、演歌のこぶしやジャズの節回しを入れたような感じ?とでも言えばいいのか。およそ可能な限りの技巧を尽くして、リアルな「人間くささ」を表現する。愛情、哀情、非情、温情、無情、薄情、情愛、激情など、人間の持ちうる喜怒哀楽、様々な「情」を語るのが義太夫節の真骨頂。それ故、奥が深い。日本の伝統歌唱の中でも断トツの濃さと強烈な個性を誇る義太夫節は、よくも悪くも、そして、今も昔も生々しくて暑苦しい街・大坂が生み出したものと思う。 私自身、文楽を初めて観に行ったとき、「あれ?これ大阪弁やん」と思って、一気に距離が縮まったことを思い出した。 「文楽の義太夫節は、江戸時代に使われていた大阪の言葉で語られています。昔は、地域によって言葉が全然違いましたから、やっぱり義太夫節は、文楽は、大阪じゃないとだめだ、ということだったんでしょうね。それと、明治の世になって、東京へ居を移した能楽師や歌舞伎役者も多かったのですが、文楽は本拠地である大阪に残った。そして、数々の豪商を始め、船場の旦那衆らがパトロンとなって文楽を守ったんです」(中島氏)