これぞ「大阪の情」やわ!元禄時代から続く人形浄瑠璃文楽に浸る
大阪を語る際、忘れてはならないもののひとつが、人形浄瑠璃文楽だ。語りの太夫(たゆう)と三味線弾(しゃみせんひ)き、人形を操る人形遣(にんぎょうつか)いが三位一体となって表現する舞台芸術は、江戸時代、大坂が日本文化の中心だった頃に誕生し、現在に引き継がれている。その本拠地は、大阪・日本橋(にっぽんばし)にある国立文楽劇場だ。大阪で生まれた伝統芸能、文楽の歴史と今を考える。 唯一都電が走る大塚駅周辺の知られざる歴史散歩
江戸時代へプレイバック
「チョーン! チョーン、チョン、チョン、チョン、チョン、チョン、チョン……」 柝(き)の甲高い音が劇場内に響き渡った。ドンドンドンドン……という太鼓の音と共に、 黒・柿色・萌黄(もえぎ)の定式幕が、静かに上手から下手へと開いていくと、舞台上手の出語り床(ゆか)に、盆回しに乗って太夫と三味線弾きが登場した。 「とぉ~ざい」という声を皮切りに、これから始まる演目や演奏者を紹介する「口上(こうじょう)」が述べられ,見台(けんだい)に置かれた床本(ゆかほん)を、太夫が両手で恭しく捧げ持ち、一礼する。腹に沁みる太棹(ふとざお)三味線の「ベベン」という音が空気を震わせると、場内が一気に令和から江戸時代へとプレイパックした。 「物語の流れや登場人物の台詞を、義太夫節で語るのが太夫、登場人物の感情や情景を音で表現するのが三味線弾き、そして、物語をビジュアル化するのが人形を操る人形遣い。この三業(さんぎょう)が合わさった芸能が、人形浄瑠璃文楽です。文楽の原型は、江戸・元禄時代の大坂・道頓堀で誕生したのですが、当時の人々にとっては、今でいうミュージカルやオペラのような「音楽劇」で、大変斬新な演出だったのだと思います」(独立行政法人日本芸術文化振興会国立文楽劇場支配人・中島敏隆氏)
「文楽」と呼ばれるようになったのは、明治から大正時代
そもそも文楽とは、浄瑠璃とは何なのか。ここからは歴史のお勉強となるので、少々おつきあい願いたい。 浄瑠璃とは、三味線を伴奏とする語り物のひとつだ。語り物とは、物語に節をつけて聴かせる語りに楽器伴奏が入ったもので、その源流は、琵琶法師が琵琶の演奏に合わせて『平家物語』などを語る「平曲(へいきょく)」と言われている。その浄瑠璃と人形を操る芸能が出合い、人形浄瑠璃の原型ができあがった。 時は元禄。5代将軍徳川綱吉による「生類憐れみの令」が出される3年前の1684(貞享元)年、語りの天才・竹本義太夫(たけもと・ぎだゆう)が、大坂・道頓堀に人形浄瑠璃の芝居小屋「竹本座」をを開いた。竹本義太夫は、豊かな声量と広い音域、独特の節回しで観客を魅了、浄瑠璃(語り)と言えば義太夫節と言われるようになる。 その竹本座の新作狂言『出世景清(しゅっせかげきよ)』を書いたのが、近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん 1653-1724年)だ。『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』や『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』など数々の名作を生み出した近松が生涯に書いた浄瑠璃作品は、100を越える。 1703(元禄16)年初演の『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』は、実際に起きた心中事件を題材にした近松初の世話物だ。今から300年以上前に書かれた作品とは思えないほど完成度が高く、現代にも通じる人間の愚かさや一途さ、人の情けやしがらみを描いた、心打たれる作品だ。近松門左衛門が「日本のシェイクスピア」と呼ばれるのもうなづける。 その後、竹本義太夫の弟子・豊竹若太夫(とよたけ・わかたゆう)が道頓堀に豊竹座を開き、人形浄瑠璃は全盛期を迎える。さらに一人で動かしていた人形を三人で操るようになると、より表現の幅が広がった。 そして、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』が誕生する。歌舞伎でも三大名作と呼ばれるこれらの作品は、もとは人形浄瑠璃の作品だ。他にも、人形浄瑠璃が原作となっている歌舞伎作品も多く、それらは「丸本物(まるほんもの)」と呼ばれている。 隆盛を誇った人形浄瑠璃も、人間が演じる歌舞伎に押され、次第に客足が遠のいていく。そうした中、江戸後期の19世紀初頭、初代植村文楽軒(うえむら・ぶんらくけん)が大坂の高津(こうづ)に新しく人形浄瑠璃の座を起こし、人気を集めるようになった。 1872(明治5)年、三代目文楽軒が大阪の松島新地に芝居小屋を新築した際、文楽座と名乗った。現在、人形浄瑠璃が「文楽」と呼ばれる由縁はここにある。明治から大正時代にかけて再び人気が高まり、文楽は黄金時代を迎えることとなり、大阪の文楽座で行われる人形浄瑠璃を文楽と呼ぶようになった。 文楽という呼び名が定着したのは、実はそれほど古い話ではないのだ。