『光る君へ』なぜ道長は「関白」を最後まで引き受けなかったのか。あえて現場の<公卿会議>に携わり続けた深い理由
『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。 花山院に矢を放った伊周・隆家兄弟は「左遷」。左遷先で彼らがどんな扱いを受けたかというと… * * * * * * * ◆道長が関白にならなかった理由 藤原道長が一条、三条朝において、あえて内覧、左大臣にとどまり、関白にはならなかった理由を考えてみたい。 内覧というのは、天皇の奏上・宣下に際して、前もって文書に目を通すという職務である。これは、そもそも太政官を中心とする官僚機構を掌握し、天皇の奏上と宣下を独占することなのである。 この内覧の職務を拡大し、幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政であり、天皇が成人となったとき、奏上や詔勅発給などに拒否権を行使できるのが関白であるとされる。 こうして、摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるのだから、制度上は摂関になった方がよいわけである。 一方で、周知のように、摂関制度と外戚とは密接な関係がある。 制度的に摂関制度が確立していっても、天皇の外戚という非制度的な関係を有さない場合は、権力が弱体化する恐れが常にあった。だから、道長が外戚関係の構築にもっとも精力を注いだのは、当然のことなのである。 摂関政治とはいいながら、外戚、つまり天皇のミウチ(限られた血縁者)であることが、とても重要なのである。外戚でなければ、首席大臣の権限拡大版であるから、天皇との関係において、不利になってしまう。
◆道長と伊周による激しい対立の背景 この摂関制度と非制度的な外戚関係のあいだに、さらに現実の政治状況が存在する。 道長は姉詮子の生んだ一条天皇の外叔父にあたる外戚であった。しかし、父兼家の政策によって、非常に昇進が早かったため、一条に入内させようにも娘の彰子が若すぎた。 そのために先に中宮になっていた故道隆の娘定子が、天皇の寵愛をうけていた。定子の兄である伊周(これちか)は道長以上に昇進が早く、次代の外戚となる可能性が高かったのである。 道長が内覧となった前後の伊周との厳しい対立は、そうした外戚をめぐる争いが背景にある。 そして、花山法皇襲撃事件で、伊周・隆家兄弟の中関白家(なかのかんぱくけ)は失脚するが、他方その縛りがなくなったせいか、かえって新たな入内が相次ぐことになった。大納言藤原公季(きんすえ)の娘義子と右大臣藤原顕光の娘元子である。 公季も顕光も家柄はよく、次代の外戚家となる可能性が大いにあった。しかも、中関白家の失脚にもかかわらず、天皇の定子に対する寵愛も止まることはなかった。将来的に中関白家が外戚家として復活する可能性も完全に消えたわけではなかった。 道長とすれば、次代を考えると、現在の外戚の地位に安住することができなかったのである。
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