『光る君へ』なぜ道長は「関白」を最後まで引き受けなかったのか。あえて現場の<公卿会議>に携わり続けた深い理由
◆一条朝はとくに有能な公卿が多かった時代だった 道長にとって幸いなことに、この公季と顕光は家柄についてはよかったが、あまり有能な人物ではなかった。太政官の政務や儀式で、それが露呈されることがしばしばだったのである。そして、一条朝はとくに有能な公卿が多かった時代であるといわれている。 藤原実資(さねすけ)は、一条朝初頭に蔵人頭(くろうどのとう)を2年ほどつとめたが、その後任が藤原公任(きんとう)、そのあとが源俊賢(としかた)、そして藤原行成が続く。蔵人頭は2人いるが、この行成のとき、もう一人が藤原斉信(ただのぶ)である。 また、斉信の前が源扶義(すけよし)、その前任が平惟仲(これなか)、その少し前が藤原有国なので、彼ら多くが蔵人頭経験者であり、天皇側近としての実務に習熟していた。彼らの中には、弁官経験のある太政官実務に習熟した者も多かった。 こうした実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭を終えたあと、公卿として陣定(じんのさだめ)という会議に出席するようになったのである。
◆公卿らの信頼をえることが必要と考えたのでは こうなると、道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身をおいて、彼らの信頼をえることが必要だと考えたのであろう。そのために、あえて一上、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとしたのである。 三条朝においては、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかったが、それでも道長は関白にはならなかった。三条天皇からの関白就任要請を辞退までしたのである。 そのことは、道長にとって、内覧で一上左大臣という立場の有効性は、もはや確信となっていたためであろう。そして、外孫後一条が即位すると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任するのである。 以後、道長は陣定には出席しない。
◆政治的な地位は世襲されることに 太政官の職務を執行する一上には当然、次席の右大臣である藤原顕光が就くはずであったが、彼は老いて無能であり、その次の内大臣藤原公季にも問題があった。大納言以上のうち、その日参入した者に一上を担当させることになったのである。 外戚になれなかった顕光も公季は、もはや道長の脅威とはとうてい思えない。しかし、この時点にいたっても、道長は彼らへの警戒を怠らなかった。 また、それ以上に、無能な彼らに一上を独占させる弊害を認識し、それ以外の有能な公卿たちをフルに活用することを考えたらしい。 権力の絶頂をむかえていた道長は、摂政の地位をあっけなく嫡子頼通に譲る。こうして、道長の公卿会議の中で築いた政治的な地位は、世襲されることになった。 *本稿は、『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』の一部を再編集したものです。
美川圭
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