「趣味は医者」と豪語…現場が好きなベテラン脳外科医がキャリアをなげうって選んだ「意外すぎる進路」
東大教授に異例の抜擢
そんな実績が認められたのか、獨協医大教授になってから3年後の1999年、晋は東京大学の教授として、国際地域保健学教室へ赴任することになった。脳外科医が専門分野をがらりと変えて、国際保健領域の教授になるのは異例のことだと思う。 だが、晋は医師の仕事が嫌になったわけではない。趣味を聞かれれば「医者かなあ」と言い、聞きもしないのに「人間の脳って、本当にきれいなんだよ」と教えてくれたこともある。そのくらい好きな仕事だったが、繊細さと同時に体力がもとめられる激務だったから、もともと50代で辞めようと思っていたのだ。 先進国と途上国のあいだにある医療格差を解決したい、との思いもあった。先進国では、ひとりに対して何百万円、何千万円とかかる治療が行われる。ところが、いわゆる途上国では、1ドルで買える経口補水液すら入手できず、亡くなっていく子どもがいる。 「たとえ明日死ぬかもしれないという子供であっても、1人1人の命を最後まで大事にしなくてはならない」 だから国際保健の道に進んだと、晋は同窓会紙に書いている(『鉄門だより』2006年3月10日号)。持ち前の正義感が、彼を突き動かしたのだろう。 こうやって駆け足で振り返ってみると、晋の人生は激務に次ぐ激務、転進につぐ転進だったと、あらためて思う。まがりなりにも続けてこられたのは、縁あった多くの方々に支えていただいたからだ。 たとえば晋がJOCSの総主事だったころは、学生時代から通い続けた高橋集会の友人たちが、私たちの生活を心配して、毎月ひとり5000円のカンパを募って援助してくれた。そんな交わりが、アルツハイマー病と診断されたあとの人生にもつながった。 沖縄旅行でお世話になった上田裕一先生と晋は、獨協医大時代からの縁だ。今回の沖縄移住でもまた、私たちは先生のお世話になるのである。
若井 克子