熱海土石流は肥大化する東京が生んだ災害だ 「国土強靭化」ではなく「国民強靭化」を
列島の基軸としての東海道・街道と鉄道
それまでの都市化の中心であった関西から、新しい中心としての江戸・東京に至るルートとしては、日本アルプスを避けて太平洋の海岸沿いをまわるルートが最適で、東海道が日本列島都市化の基軸となったが、最後の難関が富士山から箱根を経て伊豆半島につらなる山塊、現在の富士箱根伊豆国立公園である。 江戸側から見ればこの山並みが最初の難所で、街道としての東海道は小田原から芦ノ湖を経て西に降りる「箱根越え」をとり、その頂部には関所がおかれ、特に「入り鉄砲出女」を厳しく取り締まった。現在の国道1号線であり、駅伝コースである。 しかし鉄道はそうはいかない。「箱根八里は馬でも越すが…」と詠まれたが、鉄道は越えられないということで、明治期には国府津から北へ、富士と箱根の間に迂回する御殿場ルートがとられた。そして昭和9年、待望の丹那トンネルが完成し、熱海から函南に抜ける現在の東海道本線ルートが開通したのだ。 古くから良好な温泉地として知られていた熱海は、江戸期には特に徳川家の湯治場として利用され、明治以後は、貫一お宮で知られる『金色夜叉』などの人気もあって、爆発的に肥大する東京という都市の温泉場として発展し、東海道本線が熱海を通過することによって、東京から鉄道によって行ける最大の温泉リゾートとなったのである。一時は新婚旅行先としても人気があり、新幹線も停車することとなってますます利便性が高まった。 しかしこの街は、急峻な山を背景として海に面する小さな湾である。そこに集中する旅館、ホテル、保養所、別荘などの需要を満たすだけの平地がない。おのずから丘陵地への開発が進み、かなり無理な条件での宅地造成がなされていったのだ。
余暇文化の質の転換
戦後高度成長とともに東京は膨張し、熱海のみならず、伊豆半島の東海岸全般にリゾートとしての開発が進んだ。急峻な崖っぷちに辛うじて鉄道と自動車道路が併走し、小さな入り江にはホテルや旅館が建ち並び、山間部を造成して別荘地が開発された。しかもこの半島にはいくつかの地殻プレートが交差して地震が多く、そのたびに土砂が崩れて鉄道や道路を寸断する事態を招いていた。 やがてバブル経済が弾け、リゾートの地価が急落した。それまでの旅館、ホテル、保養所は、客が来ない上に維持費がかさむので、信じられないような低価格で売られ、あれほど温泉客で賑わっていた熱海も、さすがに閑古鳥が鳴いたのである。日本経済の質が変わり、日本人の余暇生活の質も変わり、熱海への新婚旅行も社内旅行も温泉での宴会も接待も、過去のカルチャーとなったのだ。 そして近年、そういった宿泊施設を買い取って、新しいモデルによって経営する星野リゾートや大江戸温泉物語や伊東園など、大手リゾート業者の集客力と、高齢者用住まいの需要の高まりから、熱海は再び脚光を浴び、新たに開発が進められる時代となった。 今回の土石流は、地球温暖化による異常気象というマクロの問題と、問題の多い盛り土というミクロの問題と、その中間の、日本列島の都市化の歴史と東京というバケモノのような都市の肥大化を原因としているのである。