昭和歌謡のスター歌手は、お座敷の芸者から銀座キャバレーのホステスに。夜の社交場の変化、高度経済成長がもたらした影響とは
◆公衆電話の普及 別れの場面に電話が登場したのもこの頃であった。 新設の東芝(東京芝浦電機)レコードから昭和34年11月に松山恵子「お別れ公衆電話」(作詞:藤間哲郎、作曲:袴田宗孝)が発売された。 上京してきた若者と、故郷に残った若者との最後の電話であったのだろうか。 全国の公衆電話は昭和15年(1940)に約1万7249台であったが、同35年(1960)には13万3518台へと増加した。 この頃は市内通話が10円で時間無制限で通話できたが、昭和45年(1970)1月30日から3分10円となった。 従来の乗り物を使った男女の別れの場面は、列車が発車する駅のホーム、船が出て行く港の波止場に限られていたが、そこに飛行機が出発する空港が登場したのである。 これも高度経済成長を迎えた頃の時代を反映していた。 ※本稿は、『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
刑部芳則