神奈川県愛川町の「移民によるペルー料理」が愛される深い事情 県内で最も「外国籍住民の割合」が高い自治体
町内の郷土資料館で担当者に聞いたところ、同飛行場では当初、「赤トンボ」と呼ばれる練習機で飛行兵を養成していたという。本土決戦に備えた急ごしらえの飛行場は滑走路も未舗装で、草を刈り取って平らに直しただけだった。戦況が悪化すると航空兵養成も短期間となり、訓練もそこそこに特攻隊員として戦場に向かわされた若者も少なくなかった。愛川は太平洋戦争開戦から終戦までの間は「基地の町」だったのである。 そうしたことから町内には軍事遺構が点在する。部隊の正門、格納庫の基礎、排水溝、弾薬庫など、各所に飛行場時代の名残を見ることができるのだ。
終戦後、飛行場は農地となったが、1960年代半ばに工業団地が造成され、いまや多くの外国人労働者を引き寄せる多国籍・多文化の町となった。町内を歩けば、各国料理の飲食店はもとより、海外食材店やベトナム寺院など、異国の風景に出くわすことも多い。 ファンルイスさんも、そこに“引き寄せられた”ひとりだった。 ■工場労働者は「がっつりなメシ」を欲した 金属加工の工場で働き、金を貯めて店をオープンさせたのは2001年。ただし、最初は沖縄そばの店だった。
「ペルーにいた頃から沖縄そばに親しんできた。昔から飲食店を開くならば、沖縄そばの店にしたいと考えていたんです」 ルーツにこだわったというよりも、沖縄そばは、ファンルイスさんの体の一部ともいうべき存在だったのである。 実際、開業したら、同地域では初の沖縄そば店ということもあり、客足は悪くなかった。デカセギ労働者の中には沖縄ルーツの人も少なくないのだ。だが結局、ペルー料理店に衣替えしたのは、客がそれを望んだからでもある。
「ペルーの料理はないの?」 ペルー人の客は、店主が同郷であることを知ると、必ずそう聞いてきた。体力勝負の工場労働者は、見た目もボリュームも「がっつりなメシを欲した」のであった。 ペルー料理のブラッシュアップに大きく貢献したのは、前出・息子の安彦さんである。 安彦さんもペルー生まれではあるが、父親と一緒に渡日したのは1歳の頃。前述したように沖縄で過ごしたのち、愛川で中学、高校に通った。その後、調理師専門学校で学び、県内のイタリア料理店で8年間働いたのち、「TIKI」の店主を父親から継いだ。