永遠の命は可能か?サイボーグ化、人のからだの交換部品を作り出す技術進展
もうひとつの永遠の命
私が永遠の生命は可能だと考えるもうひとつの筋道についても述べよう。実はこちらが本題だ。 それは、仏教の悟りの境地に似ている。修行は不要だが。あるいは、ガイア仮説とも似ている。 先ほども述べたように、〈私〉というのは無個性な小さな存在であり、あなたが持っている大切な〈私〉も、隣の人が持っている〈私〉も、基本的に何も違わない。〈私〉は、高度な生命体さえあれば、どこにでも簡単に生じるものだということができる。何千年も前の人が持っていた〈私〉も、何億光年のかなたに住む宇宙人の〈私〉も、あなたの〈私〉もわたしの〈私〉も、そしてたぶん魚の〈私〉も、みんな本質的に同じものなのだ。なんて普遍的で超時空間的であることか。 そんな〈私〉を集合体として見たとき、これが永遠でなくてなんだろう。〈私〉のネットワークは、時間を超え、空間を超え、無限にちりばめられていて、永遠に続いていく。そう考えると、永遠の命は可能だ。あなたの知情意と記憶の命は有限だが、あなたの〈私〉の命は、輪廻のように、永遠に、確実に、受け継がれていくのだ。 眠る直前とか酔っ払ったときのなんともうつろな気持ちのいい状態は、永遠の命を垣間見ている幸福なのかもしれない。 眠くて気持ちがいいとき、あるいは酔っ払って気持ちがいいときとは、自分という現象が外側からあいまいになっていき、身体、「知情意」、「私」の中の〈私〉以外の部分が次第に取り除かれていった状態だ。つまり、〈私〉だけに近づく体験。これは、前に述べた宗教家の断食体験とも似ている。自分から余計なものを取り除くと、世界とつながった〈私〉だけになる。だから至福の気分になれるのかもしれない。 そして人は眠りにつく。眠りとは、意識のない状態。つまり、自分が次第に薄れていって、ついには〈私〉さえも取り除かれた状態だ。これは〈私〉にとっては死と同じだ。朝になると再び〈私〉が現れる、という点が死と違うに過ぎない。 つまり、眠りにつくときの気持ちとは、自分からすべてを取り除き、最後には〈私〉をも取り除くことによって、時間を超え、空間を超え、無限にちりばめられた〈私〉のネットワークの境地を垣間見る、仮想の死なのではないかと思う。 【参考文献】 ・『脳はなぜ「心」を作ったのか ── 「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房、2004年) ※次回は7/15ごろ掲載予定です。