消えてしまった「工場」の地図記号。伝統的な<歯車>の形になるまでの道のりと工場の歴史とは?
◆「工場」の記号に統合 以上が金属工場であるが、後の二つは窯業関連である。「磚瓦製造窯」の方は丸い輪郭の窯(かま)にアーチ状の入り口を描いたものだが、「明治33年図式」からカナダ極北の先住民のイグルー(雪の家)に似た記号となり、呼び名も「磚瓦製造窯及陶磁器製造窯」となり、細かい話だが「明治42年図式」からは製造窯を製造場に改めている。 磚の字は瓦を指し、現代語では煉瓦のように固めた茶の「磚茶(たんちゃ)」に用いられる程度だが、記号の対象は瓦や煉瓦などを焼く窯である。 煉瓦造りの建造物は明治に入ってから急増、これを受け実業家の渋沢栄一らが郷里近くの上敷免(じょうしきめん)村(現埼玉県深谷市)に設立したのが、日本初の機械式煉瓦工場となる日本煉瓦製造である。 東京駅や現法務省などの現存する赤煉瓦建物の煉瓦供給を担っていたが、この工場に向けて深谷駅から引き込まれた線路も日本初の専用鉄道だ。 次の「石灰製造所」は当初「石灰炉」で、後に「石灰製造窯」と呼称が変化しているが、上の開いた丸い袋形の記号である。 東京の青梅(おうめ)街道が江戸城の大量の漆喰需要をまかなうべく青梅付近の石灰を運ぶために整備されたのは知られているが、石灰は肥料としても広く用いられた。 記号は江戸後期から用いられてきた小規模な石灰窯(いしばいがま)をイメージしたように見えるが、「坩堝(るつぼ)の形を図案化」したとされている。 戦前までは石灰石の産地近くに小規模な窯が多く見られたが、次第に近代的な大規模工場となるため、地形図で区別する意義が失われたのだろう。
◆記号も工場の歴史とともに変遷する 戦後初の図式である「昭和30年図式」では、以上説明したものがことごとく廃止されて「工場」の記号に統合されている。 ただし統合しすぎて正体をつかみにくいからか、「昭和35年加除式」では何を製造するのかをカッコ書きで(食品)や(化)と補う表記も用いられたが、次の「昭和40年図式」では消えてしまった。 それ以後の工場記号は「平成14年図式」によれば「地域の状況を考慮して好目標となるもの」に適用することになっており、もちろんすべてを網羅するものではないが、実際の地形図を見ると時代により適用の基準に揺れはあるようだ。 敷地が125メートル四方以上の大規模なものについてはその名称を「注記することができる」とあり、その場合は他の記号と同様に工場記号は表示しない。 「平成25年図式」では前述のように工場記号が廃止されたが、大規模な工場については従前通りに「JFEスチール製鉄所」とか「トヨタ自動車元町工場」のように注記で表示してある。 文字で工場の社名や種類を示すことは明治期から行われており、例えば製糸業が盛んだった長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)では、明治43年測図の5万分の1地形図「諏訪」に、煙突記号を伴った「製糸場」の文字がいくつも記されているし、同41年測図の2万分の1地形図「吹田(すいた)」には「麦酒会社」(現アサヒビール吹田工場)の文字も表示された。 中には現代語では意味が通じにくいものもある。 例えば明治・大正期の地形図では、現東京都北区の王子駅から西へ約1キロの滝野川に銃砲の起爆剤を製造する「雷汞(らいこう)場」、現荒川区南千住に毛織物工場の「製絨(せいじゅう)所」などの文字が表記された。記号も工場の歴史とともに変遷する。 ※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
今尾恵介