国産車では唯一無二【スズキ RE5】ロータリーエンジン搭載バイクはなぜこの1台限りだったのか
初モノエンジンに対峙した、脅威の80万km耐久テスト
日本の2輪メーカーでは唯一となる、ロータリーエンジン搭載車の量産化を実現したスズキ。同社がNSU/ヴァンケルとロータリーエンジンに関するライセンス契約を結んだのは、1970年10月24日。そして既存のレシプロエンジンとはまったく異なる構成の内燃機関を、スズキがモノにするまでには相当以上の試行錯誤が必要だったようだ。 【画像10点】ロータリーエンジン搭載バイク「スズキ RE5」の貴重な海外向けカタログを見る! メカニズム写真も満載 約4年に及んだ開発期間中に、動力計を用いた耐久試験の距離数は延べ80万km、実走テストは約50万kmに及んだ。日本におけるロータリーエンジンの誕生秘話と言うと、1960年代のマツダが話題になることが多いものの、1970年代のスズキもマツダに勝るとも劣らない研鑽を積んでいたのである。 そうしたプロセスを経て、RE5の市販開始は、1973年秋の東京モーターショーにプロトタイプを出展した約1年後、1974年11月からである。アメリカ市場での価格は既存のGT750より約500ドル高い2475ドルだったものの、革新的なエンジンを搭載していることを考えれば、異論を述べる人はほとんどいなかったはずだ。実際にも1973年のアメリカでのディーラーミーティングに出展した際は、約2万台もの受注見込みが確認できたという。 (写真説明) ■1973年の東京モーターショーで、観客から大きな注目を集めたスズキ初のロータリーエンジン搭載車。発表当時の車名はRX5。少なくとも外観はこの時点で完成形に到達していたようで、量産型RE5との違いはほとんど存在しない。 ■1974年、海外向けに市販された初期型のRE5。エンジンのみならず外観にも力を入れたもので、この初代をデザインを担当したのは4輪のデザインでも名を馳せたイタリア人のジョルジェット・ジウジアーロ。通称「茶筒」と呼ばれるメーターは、その円筒形の個性的な形状でパネル部に開閉式カバーを付けた独特なものだった。
第一次オイルショックに翻弄された夢のエンジン
ところが、現実の市場でその後RE5は予想外の大苦戦を強いられる。その原因は1973年秋に起こった第1次オイルショックで、原油価格の高騰に伴い、燃費が良好とは言えないロータリーエンジンへの関心は、世界中で急速に下がっていくこととなったのである。 1970年代の2輪の世界では、燃費はあまり重要な要素ではなかったのだが、いったん悪いイメージが定着してしまうと、それを覆すのは容易ではない。結果的にRE5のトータルでの生産台数は約6000台に留まり、日本では運輸省の認可が受けられなかったため、残念ながら販売は行われなかった。 ロータリーエンジンに関するノウハウをゼロから構築した時間に加えて、専用の加工機や生産設備を準備したことを踏まえると、約6000台しか作られなかったRE5は成功作とは言えない。とはいえ、RE5で確立した技術は以後に登場するモデルに活かされたはずだし、当時のスズキはロータリーエンジンの周辺技術に関するさまざまな特許を取得していた。そういった事実を考えると、日本の2輪メーカーでは唯一の量産ロータリーエンジン搭載車となったRE5を、安易に失敗作と断ずることはできないだろう。