「コーヒー味のお吸い物」に愕然…日本のかつお節を"ヨーロッパの台所"に広めた東京・築地の3代目社長の執念
■「戻るなら社長としてじゃないと戻らないよ」 和田久は、大正14年(1925年)に祖父の久之さんが、日本橋の魚市場でだし粉店を立ち上げたのが始まりだ。その後、築地に拠点を移した。2代目である父親の昇三さんを経て、2011年に3人兄弟の長男で当時30歳だった和田さんが3代目に就任した。 父親は、こだわりの商品をお店で一生懸命売るのが好きだった。しかし、和田さんは違った。足を使い外で売って歩く営業が性に合う。それは戦後に、台湾などでかつお節工場を立ち上げた祖父のやり方に似ていた。 和田さんの足で稼ぐ気質が開花したのは大学生のころ。語学学校へ通うためアメリカへ行くも、すぐに辞め、車や洋服などの輸出会社を立ち上げた。アメリカで2年間、ひとり社長として働いた。 日本に戻ってからも、父親の下では働かず、鹿児島の枕崎に下請け工場「鰹久工房」を設立。和田久の製品だけではなく、日本中の削り節加工工場の特注品の下請けを行った。そこで、経営もしながら営業にも力をいれた。 「北海道から鹿児島まで、日本列島を車で回りながら営業しました。『下請けの仕事はないですか?』と各地の工場に声をかけ、買っていただいたお客様には『ありがとうございます』とお礼に行くなどして。そしたら、『九州から熱心で面白い奴がきたぞ』と板前さんたちから次々と注文が入るようになりました」 この時の経験は、後のヨーロッパ市場改革に大きく役立つことになる。 そして、30歳になった和田さんは父親から「そろそろ戻ってこないか」と声をかけられる。父親と一緒に仕事をする気にはならず、「戻るなら社長としてじゃないと戻らないよ」と提案すると、父親はそれを承諾した。 ■ロンドンを拠点に「足で稼ぐ営業」 2008年12月。40歳になった和田さんは、単身ロンドンへ乗り込んだ。 先述した「コーヒー味のお吸い物」との出会いから4年が経ち、和田久の経営は弟に任せてヨーロッパでの市場開拓に着手した。 まず、ロンドンの取引先から空き部屋を借りて、小さな工場をつくることにした。日本のかつお節は、EUの規制により持ち込みが禁止されていたため、ベトナムの業者に依頼。ベトナムで獲れたカツオを日本式の製法で加工し、ベンゾピレンが付着している表皮部分を削り落とす。検査を通過したものだけをロンドンの新工場で花かつおにして、販売した。 ロンドンに移住してからも、和田さんは得意とする"足で稼ぐ"営業スタイルを貫いた。車にかつお節を積んで、ロシア以外のヨーロッパ各国をひとりで回った。時には車で9000km走ることもあった。日本からドイツまで横断できるほどの距離である。 「飛び込み営業も店頭販売も、できることは可能な限りなんでもやりました。飲み屋で隣に座った人と『ヨーロッパでかつお節作ってるんです』と雑談して、仕事に繋がることもありましたから」 日本で営業していたときと違い、ライバルがいなかった。和田さんは自らの足を使い、地道に取引先を増やしていった。 「営業に行って『かつお節を使っている』と言われて確認すると、だいたいうちのが入ってました。『それ、私たちが作っているかつお節です!』と話し、まだ使っていないお店には、『ヨーロッパで手に入るんですよ』と説明して回って。そしたら、面白いねって興味を持ってもらえました」