【光る君へ】彰子の出産記録の合間に笑い話も…… 紫式部が書き残した道長や同僚女房らの様子とは?
■緊迫した状況のなかでもユーモアのあるエピソード 紫式部がいつ彰子中宮に仕えたかは、はっきりしませんが、寛弘2年(1005)だとするとこの時点で3年目となり、この場にいるベテラン女房に比べると、まだ新参という範疇にありました。とはいえ、序列に厳格な時代、紫式部が勝手にこの場にいるわけではありません。紫式部がこの場にいられたのは、『源氏物語』執筆による主家からの厚遇だけではなく、このお産の記録者としての役割が与えられていたためでしょう。特権的な立場から紫式部は、このお産のドキュメンタリーを記したと考えられます。さすがに紫式部らしく、このお産のドキュメンタリーは無味乾燥な記録ではありません。 例えば、出産前の状況が次のように記されています。 東面の間にいる女房たちは、殿上人に入りまじって座るような状態で、小中将の君が左の頭中将頼定さまと顔をばったり見合せてしまって茫然としていた様子を、後になって、みなそれぞれに言いだして笑う。この小中将の君はお化粧などがいつもゆきとどいてなよやかな美人で、この時も明け方にお化粧をしたのだが、日は泣き腫らし、涙でところどころお化粧くずれがして、あきれるほど変ってしまい、とてもその人とは見えなかった。あの美しい宰相の君が面変りなさっている様子なども、ほんとうに珍しいことでした。まして私の顔などはどんなであったろう。しかし、その際に顔を合せた人の様子が、お互いに思い出せなかったのはまことに幸いであった。 出産時の東面にいる女房たちの様子が記されています。そこには女房だけではなく、男性貴族達も入り混じっていました。小中将の君という女房が源頼定と顔を見合わせて茫然としていたといいます。頼定は道長の妻である明子の甥でした。優れた官吏でしたが、後に三条天皇の尚侍藤原綏子や一条天皇亡き後の女御藤原元子との間の浮名でも有名です。この時代、貴族女性は男性と直接顔を合わせるのを避けていました。小中将はよほど我を忘れていたのでしょうか。普段からお化粧も完璧で、隙のない美人で、この日も暁にばっちりメイクも決めていたのですが、顔は泣き腫れ、涙でメイク崩れをしていました。小中将さんとは別人のようでしたよ、と紫式部は書いています。直接、その姿を見たのか、あるいは伝聞なのか。紫式部は中宮の隣の間にいたので、伝聞かもしれません。 もちろん中宮のことを心配してのメイク崩れなので、小中将の君の忠誠を書いてはいるのですが、別人だとまで言っているのは、少し毒気があるように思います。さらに美人であった宰相の君の面変わりを記して(『紫式部日記』には昼寝姿の美しさが書かれてもいます)、ましてや自分はどうだったのだろう、と思ったと書いています。だけど、その際に顔を合わせた人の顔はお互いに思い出せないのは幸いだ、と続けます。そう言いながら、しっかり書いているわけですが、とりあえず、緊迫感が続く記述の中で、ふっと気分を和ませるようなエピソードが効果的に置かれているのです。 出産前の霊媒(よりまし)や僧侶たちの阿鼻叫喚の光景もすさまじいほど劇的に活写されていますが、この様子は次回に譲ることといたしましょう。 <参考文献> ■福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸