上田誠仁コラム雲外蒼天/第52回「師走の空に輝く星たち~故・横溝三郎氏との会話から~」
山梨学大の上田誠仁顧問による特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます! ********************** 冬至を過ぎると、殊更に寒さが身に染みてくる。それでも、これを境に陽が長くなってくるという思いが少し心を軽くしてくれる。クリスマスの定番ソングがラジオから流れてくるかと思いきや、一気に年の瀬が見える頃となった。 1964年東京五輪3000m障害代表・横溝三郎氏死去 東京国際大監督としても手腕発揮 箱根駅伝の100回記念大会がついこの前であったような錯覚を覚えるほど、この1年は迅速に過ぎていった。 いよいよ101回大会である。箱根駅伝のレース予想や各チームのコメントなどは専門誌や特集号をはじめ、各種メディアが事細かに報道している。スタートを待たずして、箱根駅伝の大きな波のうねりに飲み込まれてゆきそうでもある。 辰年の背を越え、巳年を迎えるためにもしばし立ち止まって、この1年を振り返りたい。誰もが悲喜こもごものできごとに一喜一憂してきたことと思う。 そのような中で、年末の紙面には毎年“追悼”と書かれた記事が掲載される。2024年は能登半島地震から始まり、多くの犠牲者や被災者を出す甚大な被害をもたらした。そのような状況下にあって、箱根駅伝は100回大会を開催させていただいた。 新たな一歩を踏み出す大会を迎えるにあたり、犠牲になられた方々へ心からの哀悼と、被害に遭われた方々にとって箱根駅伝が少しでも心の励みになる大会であればと願っている。 そのうえで箱根駅伝に長らくかかわってきた身として、11月14日に84歳でお亡くなりになられた横溝三郎氏を追悼したい。訃報の知らせは、冬枯れの枝を夕暮れ時に見上げるようで寂しさを感じた。 横溝氏は1939年、横浜市生まれ。この年の第20回箱根駅伝は出場6回目の専大が初優勝した年でもある。幼少期は戦時下ということもあり、箱根駅伝は5回中止を余儀なくされている(戦時下の1941年、42年、44年、45年、終戦後の46年)。 7歳の時に23回大会か開催されその後は連続開催されてきた。中学1年時の53年の28回大会からNHKラジオで移動型スポーツイベントの中継がされるようになっている。 横浜高時代の56年、57年にインターハイで5000m2連覇、57年は1500mとの2冠を達成。その秋には高校生で当時初となる14分台達成(14分47秒6)などの実績と、スーパー高校生としての期待を背負い、中大に入学している。 筆者の私が生まれた59年の35回大会からは4年連続で箱根を走り、在学中に4連覇を達成。その後の優勝を合わせ中大は不滅の箱根駅伝6連勝を飾っている。 トラックでは5000mと3000m障害で日本記録を樹立。実業団で競技を続け、64年の東京五輪に3000m障害で出場を果たしている。 私との出会いは横溝氏がNHKの第1中継車で解説をされた82年~87年(58回~63回)の中で、当時香川で中学教員だった頃の58回、59回大会、山梨学大の監督1年目だった86年の62回大会でゲスト解説として第2中継車に搭乗させていただいた時である。 箱根駅伝のレジェンド的存在であり、五輪選手、元日本記録保持者でもあった横溝氏と解説をご一緒させていただけることは光栄であった。そのような方が、箱根駅伝をどのような視点で俯瞰し、戦況や選手の状態、心情をどのように表現するのか。自分の解説を忘れるほど、聞き入っていたことを思い出す。