美女におぼれ、すべてを失うことに… 色欲に負けた為政者の「末路」とは? ハニートラップにかかった呉王夫差&楊貴妃を殺した玄宗
世間を揺るがしている国民民主党の玉木雄一郎代表の不倫騒動。ほかにも「パパ活不倫」で議員辞職した宮澤博行氏など、昨今も相次ぐ政治家の女性スキャンダルだが、女性に溺れた政治家が痛い目に遭う事態は、歴史上何度も繰り返されている。今回は、中国史を動かした女性問題についてみていこう。 ■ハニートラップにかかった呉王夫差 どんな堅物でも浮気者でも虜にして離さない美女を、「傾国」または「傾城」と言う。どういうわけか、これにぴったりの対語はなく、単に「愚かな君主」を意味する「暗君」の語で済まされることが多い。 中国の歴史には、色欲に負けて国を傾けた君主、身を滅した君主が何人も見受けられる。殷の紂王がそうなら、西周の幽王もそう。 だが、ドラマ性を重視するならやはり、春秋時代末の呉王夫差(ふさ)と唐の玄宗(げんそう)の2人が群を抜いている。 春秋時代末、長江下流域では呉と越の国が激しい攻防を繰り返していたが、呉が優勢にある時のこと、越は計略により呉の弱体化を図ろうと企んだ。呉王夫差に舞姫の一団を贈ることで、政務を蔑ろにさせようとしたのである。厳選された美女の中には西施(せいし)という絶世の美女も混ざっていた。 呉王夫差には越王勾践(こうせん)に父王を敗死させられた恨みがあり、毎晩、薪の上に寝ることでその恨みを忘れぬよう努めた過去もありながら、ひとたび勾践を屈服させてからは何事もなかったかのように、勾践をそれ以上恨むこともなければ、警戒することもなかった。 越からすれば、まさに乗ずべき機会が到来したわけで、呉王夫差はすっかり西施に魅了されて国務を疎かにし、呉の君臣の間にも亀裂が生じた。その結果、呉の国は越により滅ぼされる。 みごと任務を果たした西施は、「句践の妃から、句践をも虜にするのではと警戒され、用済みの危険分子として抹殺された」とも、「政界からの引退を決めた越の宰相と結ばれ、幸せな余生を送った」とも伝えられる。 ■楊貴妃に惚れ込んだ唐の玄宗の「悲劇」 西施が謀略の手駒であったのに対し、唐の玄宗が寵愛した楊貴妃は玄宗の十八男・寿王の妃であったのを、玄宗が横取り。体裁を整えるため、いったん道教寺院に入れ、尼として一定期間を過させた後、還俗させ玄宗の後宮に入内という手続きを踏んだ。 面倒なように思えるが、玄宗はそれくらい楊貴妃に惚れ込んでいた。治世の前半、史上稀な明君と称えられた玄宗は、楊貴妃を側に置くようになってからは政務を疎かにし、絵に描いたような暗君へと成り下がっていく。 辺境の兵権を握る安禄山と楊国忠という楊貴妃の親族間で激しい権力闘争が展開されていたにも関わらず、玄宗は何ら対処することなく、755年11月、安禄山が反乱を起こしてもなおしばらく反応が鈍かった。 反乱軍の勢いが止まらず、都の長安まで目と鼻の先にまで迫られるに及び、ようやく事態の容易ならざるを悟り、楊貴妃や楊国忠らを引き連れ、遠く蜀の地まで避難しようとするが、長安を離れてまもなく、護衛の兵士たちが不穏な行動に出た。すべての責任は楊国忠にあるとしてこれを殺し、さらに楊貴妃を殺害するよう、玄宗に迫ったのである。 楊貴妃を生かしておけば、反乱が鎮まった時、楊国忠の復讐を果たそうとするに違いなく、それを防ぐには彼女を殺すしかないというのである。言う通りにしなければ護衛の任務を放棄するというので、玄宗はやむなく側近の宦官に命じて、楊貴妃を絞殺させた。 玄宗を見舞った悲劇はこれに留まらず、別行動を取っていた三男で皇太子の李亨(りきょう)が玄宗の同意を得ないまま帝位の継承を宣言。玄宗はこれを追認するしかなく、安史の乱の平定後、長安への帰還は叶うが、帝位を回復することはできず、軟禁に近い状態で余生を過ごした。すべては身から出た錆とはいえ、玄宗が失ったものはあまりに大きかった。
島崎 晋