獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#58
やさしく慎重な特攻隊長
<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より> 幕田君は剛直な性格の中に非常にやさしいところがあり、それに慎重な反面を持っていた。その為か、老成した人間という感じを受けて、彼が三十才前の青年だとはどうしても思えないところがあった。例えば、彼はがむしゃらと言われたそうだが、その彼の碁は実に慎重で、ペテンに引っかかるということが少なかった。上手といわれている連中も、これには手こずっていた。僕等の室は、訪問時間になるとお客さんが多く、それも碁とかマージャンの同好の士ではなく、話に来るのが大部分であったが、これは彼の人望を、そのやさしい人柄が人を惹きつけるのであった。
気にかけたのは母と弟妹
<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より> いつも口にする事は母と弟妹の事であった。母の為には好い青年である、弟妹達の為には思いやりのある兄貴であった。彼の作歌に、 ズボン破れからとび出している膝小僧よ私は母が恋しくてならぬ というのがあるが、これは彼のありのままの気持ちであったように思う。彼を失った家族の気持ちを考えると胸が痛くなる。 かたや石垣島、かたや福岡で戦犯事件に問われる現場に遭遇した二人は、同じ山形市出身というだけでなく、お互い意気投合し、幕田大尉が死刑執行前に五棟から連れ出されるまで、死刑囚としての日々を共にしていた。そして、ある日、幕田大尉は不思議な体験をした。死刑囚にとって意義ある境地。佐藤大佐はその様子を感慨深く記していたー。 (エピソード59に続く) *本エピソードは第58話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。