獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#58
散りゆきし戦犯
<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より> 木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤吉直 幕田海軍大尉という名前は「石垣島ケース」の裁判中に聞いたのが私にとって最初であった。石垣島ケースの中で一番軍人らしくしっかりとして居り、証人台での証言もすでに死を覚悟したもので、誠に堂々としていたということや、私の同郷人であることなどを聞いた。しかし裁判の時期が私と違っていたので、横浜ではとうとう会う機会がなかった。 〈写真:判決を受ける幕田大尉とみられる男性(米国立公文書館所蔵)〉
同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや
<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より> その後私が死刑の判決を受けて五棟の仲間入りをして間もなくだったが、昭和二十三年九月中頃の或る日幕田君が私の室に来てくれたので、初めて彼と会うことが出来た。仲々しっかりしているし、会談の中ににじみ出る彼の人柄がすっかり好きになって 「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」 「よかろう」 という簡単な会話の後で、二人は同居することに話を決めてしまった。以来、二十五年四月八日の幕田君最期の出発の日迄、二畳の室に寝ても起きても一緒に暮らして、深い縁に結ばれたのである。
あの好青年を惜しむ気持ちは変わらない
<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より> あれから二年半後の今日、年長の私が生き残って、こうして彼の憶い出を書くのは全く夢のような事で、あの当時は思っても見なかったのである。あの頃は彼の後から直ぐ行くものと、四月八日のその日から予期していたのに、金日成が暴れ出した結果かどうか、こうして書く事になったのであるが、あの好青年を惜しむ気持ちはいつまで経っても変わらない。 我々二人の一年有半の同居生活中、お互いに感情を害したり、感情に走ったような議論をしたことは一度もなかった。ウマが合うとでもいうのか、とにかく励まし合い慰め合い、気持ちのよい毎日を送った。或る時は信仰上の議論をしたり、或る時は歌を唄い合ったりしたのだが、その一つ一つが忘れ得ぬものとなっている。 〈写真:スガモプリズン〉