獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#58
米軍機搭乗員3人が殺害された石垣島事件の戦犯裁判は、1948年3月16日に判決を迎えた。結果は41人に絞首刑という過酷なものだった。1人目を斬首した特攻隊長、幕田稔大尉にも死刑が宣告され、死刑囚が集められている棟へ移された。そこで意気投合し、死刑執行までの約1年半を同室で過ごした陸軍大佐が、追悼文を残していた。「散りゆきし戦犯」。そこに記されていた幕田大尉の人柄はー。 【写真で見る】九大生体解剖事件 法廷での佐藤大佐
同室だった九大生体解剖事件の佐藤大佐
BC級戦犯を裁いた横浜裁判の中で最も有名な事件は、「九大生体解剖事件」だ。福岡におかれた西部軍に集められていた米軍機搭乗員8人が、九州帝国大学医学部で生体実験されたというショッキングな事件は、当時の新聞にも大きな取り上げられ、世間の耳目を集めた。遠藤周作の小説「海と毒薬」の題材にもなった事件だ。その中心人物が、佐藤吉直大佐だった。 石垣島事件の判決から5ヶ月後、九大事件でも判決が宣告され、西部軍の横山勇司令官と参謀だった佐藤大佐、九大の医師3人に絞首刑が言い渡された。西部軍の事件としては、さらに30人以上を斬首した油山事件があり、横山、佐藤のほかに7人に絞首刑が出ている。死刑囚の棟では、かなりの人数を石垣島事件と西部軍事件の関係者が占めていたことになる。 〈写真:横浜裁判に臨む 佐藤吉直大佐〉 佐藤大佐は、幕田大尉の死刑が執行された3ヶ月後、1950年7月に終身刑に減刑された。石垣島事件の死刑はスガモプリズン最後の死刑執行であり、朝鮮戦争が始まったことでアメリカの死刑囚たちへの関心は急速に失われ、減刑されたのかもしれない。しかし、佐藤大佐は、正式にはスガモプリズンに最後まで留め置かれた18人のうちの一人として、1958年の出所式に参列している。 〈写真:九大生体解剖事件の法廷(米国立公文書館所蔵)〉
死刑囚が集められた「五棟」での思い出
巣鴨遺書編纂会が発行した「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年)という冊子がある。死刑が執行された戦犯たちへの追悼文が収められているが、その中に佐藤大佐が幕田大尉を偲んで書いた文があった。死刑囚が集められていたのはスガモプリズンの五棟で、「五棟」は死刑囚の棟という意味で使われていた。 幕田大尉は山形市出身。1950年4月7日に死刑執行、享年30だ。 〈写真:「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年) 木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤吉直の頁〉