日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だという「意外な事実」
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 【写真】刑事責任の根拠は「自由意思」なのに、実は「自由意思」は虚構かもしれない? 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威である瀬木比呂志教授が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈多くの人が気付いていない、「犯罪者」と「私たち」を隔てる壁は「意外と薄い」という事実…紙一重の違いで、自分が刑務所に入っていた可能性も!?〉にひきつづき、死刑は正当化されうるのかにつき、考えていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
死刑に関する法意識
死刑について考える場合には、それがほかの刑罰と質的に異なることを念頭に置く必要がある。死刑は、加害者の生命を奪うという意味で、究極の応報であるとともに、誤っていた場合にはその回復がおよそ不可能だという意味でも、非常に特殊な刑罰なのである。また、死刑は、権力・システムの意向、国家のあり方や思想とも深く関連している。その意味で、「公序」とのかかわりがきわめて深い刑罰でもあるのだ。 そのような「死刑」に関する現代日本人の法意識は、少なくとも先進諸国の中でみれば、かなり特異なものといえる。 内閣府によるアンケートでは、1956年には65.0パーセントだった賛成率(死刑存続肯定率)が、2019年には80.8パーセントまで上がっている。賛成の理由としては、応報の必要性が大きいようだ。また、死刑の殺人等凶悪犯罪抑止力については、58.3パーセントが肯定している。 一方、絶対的終身刑(仮釈放のない終身刑)が導入された場合という条件をつけると、それでも死刑は廃止しないほうがよいとの意見は52.0パーセントまで減少している。また、先の段落の「賛成者」についても、将来的には状況が変われば死刑を廃止してもよいと答えた者が、うち39.9パーセントある。もっとも、殺人による死亡者数は1955年の2119人をピークとしてその後おおむね下がり続けており、2023年には228人とピーク時の一割余となっていることを考えると、「将来的な状況の変化」が何を意味しているかは、あまり明確ではない(一つの可能性として、多くの人が上のような殺人死亡者数減少の事実を認識していないことはありえよう)。 私は、法律家の多数派と同様、死刑は、可能な限り早期の廃止あるいは事実上の廃止(刑の執行を止める)が望ましいと考える。死刑に代わる刑罰としては、当面は絶対的終身刑が相当であろう。また、前記アンケートの結果からすれば、死刑と選択的な刑罰としての絶対的終身刑は、すみやかに創設すべきであろう。 死刑に対する疑問、死刑反対論の根拠としては多くのことが挙げられるが、私が根本的と考える理由は三つある。 第一に、死刑はその理論的な正当化が難しい刑罰だからである。近代国家においては、刑罰の根拠について、応報刑論、ついで目的刑論ないし教育刑論が唱えられ、徐々に、「少なくともむき出しの報復や復讐は刑罰の目的ではない」と考えられるようになってきた。 刑罰の根拠についてはすでに若干の記述を行ってきたが、ここで再度正確に整理しておこう。応報刑論とは、「刑罰は、犯罪に対する(適切な)公的応報である」というもの、目的刑論とは、「刑罰は、犯罪の防止を目的とする」というものだ。目的刑論には一般予防論と特別予防論がある。一般予防論は、「刑罰の威嚇効果によって一般人が犯罪におちいることを防止する」というもの、特別予防論は、「刑罰によって犯罪者が再び犯罪におちいることを防止する」というものだ。教育刑論は目的刑論の一種であり、犯罪者の教育に重点を置く。 そこで検討すると、まず、死刑は、応報刑としては疑問が大きい。暴力事犯(たとえば傷害、強姦等)でも刑罰としてそれと同じ種類のことを被告人に対して行うのは、近代国家では、残虐な刑罰の禁止(憲法三六条)の要請から、また、「刑罰は応報ではあっても復讐ではない」ことから、許されない。しかし、死刑は殺人罪について科されるのが普通で、これは殺人に対して国家による一種の合法的な殺人をもって報いていることになる。だが、それは許されるのかということである。法哲学的には、「国家には犯罪者の生命を奪う権限があるのか」という問題となる。 次に、目的刑論のうち一般予防論については、死刑の一般予防的効果、犯罪(殺人)抑止効果は、実をいえば、海外でも統計上全く実証されていない。死刑を廃止した国や州で殺人は増えていないのである。殺人を犯すとき、人は、冷静な損得計算などまずしない。かっとなって思わず手を出してしまったという例が大半なのだ。実をいえば、殺人の多くは、近親や知人間の感情のもつれから起こるのである。一方、数の少ない連続殺人や快楽殺人の犯人は、まずは、死刑になろうとなるまいとやる人々である。目的刑論のうち特別予防論については、死刑は対象となる人間を抹殺してしまうので、およそ問題にならない。 要するに、近代国家における死刑の理論的な正当化は、基本的に困難なのである。したがって、刑事法学者でこれを肯定する少数派も、死刑は「きわめて例外的な特別の場合」にのみ許されるとしている。 第二には、すでに論じたとおり、幼児期の虐待や劣悪な環境を含め、環境的要因の人間に対する影響は大きく、とりわけ、共感力や罪の意識の確立には決定的な影響をもたらす例の多いことがある。また、たとえばアメリカに顕著なように、殺人等の重罪には、個々の社会全体のひずみやゆがみの反映という側面も強い。 死刑は、実際には国家や共同体の責任という部分をも含む事柄(たとえば幼児虐待等)について、犯罪者だけに究極の絶対的な自己責任を負わせる。しかし、これは、見方を変えれば、そのような処理によって、つまり、不都合な存在、あるいは一種のスケープゴートを消し去ることによって、国家や社会が本来問われるべき責任を問われないですまされるということでもある。したがって、権力、システムにとっては、死刑は、犯罪に関するみずからや社会の責任から人々の目をそむけさせ、かつ人々のやり場のない不定型な報復感情にはけ口を与える「都合のよい手段」という側面をももっている。死刑の執行の多い国には専制的国家が非常に目立つことが、これを裏付ける。 なお、この点については、「そうはいっても、虐待された幼児がすべて殺人を犯すわけではない」という反論がよく出る。これは確かに事実であり、犯罪とそれに対する刑罰一般についてはいえることである。子どもは別として、大人であれば、たとえ悪い環境等の影響がある場合でも、責任能力が肯定される限り、自己の犯罪については相当の責任を負わなければならない。しかし、この理由も、生命を奪う究極の刑罰の根拠としては弱い。 第三に、「死刑は、冤罪であった場合には取り返しがつかない。国家が罪のない人を文字どおり『殺してしまった』ことになるが、それでいいのか?」ということがある。おそらく、この疑問が、死刑廃止論の根拠のうち最も反論の余地の小さいものだろう。『現代日本人の法意識』第5章で論じるとおり、検察が有罪判決に非常にこだわり、刑事系裁判官の多くが検察官に忖度しており、したがって、無罪率が異常に低く、その半面冤罪率が高いと思われる日本では、この疑問は、ことに大きなものとなる。 ほかにも、たとえば、日本の刑事司法を研究しているアメリカ人研究者から、以下のような指摘が出ている(デイビッド・T・ジョンソン著、笹倉香奈訳『アメリカ人のみた日本の死刑』〔岩波新書〕。重要と思われる部分を私なりにかいつまんでまとめた)。 (1)日本では、アメリカと異なり、死刑について特別な法的手続保障(有罪無罪判断段階と量刑段階に審理を分ける二段階審理、自動上訴、陪審員の全員一致等)が一切なく、死刑は何ら特別に扱われていない。裁判官と裁判員の単なる多数決で死刑を科すことさえ可能である。 (2)その事件が死刑事件であることが審理の開始時に告知されない。 (3)裁判員裁判では迅速が優先され、死刑事件の裁判、判断は慎重にという原則がないがしろにされている。 (4)死刑の適用基準があいまいである(1983年7月8日最高裁判決のいういわゆる「永山基準」は、単に一般的な考慮事情を列記したものにすぎず、「基準」になっていない)。 (5)弁護人の弁護活動がきわめて消極的である。 (6)検察官による上訴が可能である。 (7)秘密主義に包まれていて議論や検証ができない。 (8)絞首刑は残虐な刑罰の禁止(憲法三六条)にふれる(受刑者には激しい肉体的損傷と激痛が伴い、また、意識は長いときには二、三分も保たれる。なお、著者は、そもそも死刑執行に人道的な方法など存在しないという)。 個々の指摘の内容には、従来日本人法律家から出ていたものも多い。しかし、こうしてまとめてみることで、日本の司法における死刑の取扱いが、外国人の目からみると(また、死刑を存置している州のあるアメリカ人の目からみても)いかに異常なものにうつるかが、おわかりになるのではないかと思う。 なお、(1)の「二段階審理」とも関連するが、前の節の「応報的司法と修復的司法」の項目でもふれた「刑事訴訟への被害者参加制度」については、日弁連が、「被告人が無罪を争っている事件については、有罪無罪の判断の手続と量刑を決める手続を明確に分けた上で、被害者等の手続参加は後者においてのみ許可しうるものとすべきである(手続二分制度)」趣旨の意見書を出している(2012年11月15日。かぎカッコ部分は、意見書の関連部分要旨を私がまとめたもの)。 この意見は適切なものである。審理の段階を分けないと、被害者家族の訴訟活動が有罪無罪判断の前に行われることになり、特に、裁判員については、予断を抱かせる原因になりかねないからだ。もちろん、日本の刑事司法ではないがしろにされてきた被害者の権利の確保、また、補償やケアの必要性については、誰も否定しないだろう。しかし、現行制度に右のような問題のあることも、やはり否定しにくい。特に殺人事件で被告人が自分は犯人ではないと主張しているような場合、この問題は大きなものとなりかねない。 また、前の節でもふれたことだが、刑事訴訟への被害者参加制度については、被害者の代理人としてこれに参加した弁護士からも、真に被害者救済に資する制度になっているのかなお疑問があるとの指摘がなされている(諏訪雅顕「刑事裁判における被害者参加制度の問題点──実務上真の被害者救済になり得るものか」信州大学法学論集一五号五五頁以下。信州大学機関リポジトリ〔ウェブ〕掲載)。今後のさらなる検討、改善が必要であろう。 よく知られているとおり、ヨーロッパ諸国を始め自由主義諸国(いわゆる先進国に限らない)では死刑廃止が決定的な趨勢になっており、そうでない場合にも、事実上長期間執行を停止している例は多い。その背景には、やはり、近代・現代法の基本原理、また国家と人権のあるべき関係からして、「もはや死刑を適切な刑罰として許容するのは困難」というコンセンサスが存在する。 以上のとおり、死刑というテーマについても、現代日本人の法意識には、やはり現代の先進国標準を外れた部分があるといえるのではないだろうか。日本は、殺人、ことに無目的連続殺人・快楽殺人、あるいは大量殺人が頻発している国ではなく、殺人発生率からみればほぼ世界最低のレヴェルであるのを考えれば、なおさらのことである。
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