日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だという「意外な事実」
法に必要なマクロの視点、そして現代日本人が失いつつある慈悲の心
これは、法的な「制度論」について考える場合にはいつでもいえることであり、また1節でも述べたことだが、社会の状況が悪くなれば権力者批判封じ込めのために利用されかねない侮辱罪厳罰化(2022年。法定刑に拘禁刑〔2025年までは懲役・禁錮〕、罰金が入った)等の例と同じく、死刑について考える場合にも、マクロ的な見方がまず必要なのであり、個々の、一般の注意を引きやすい極端な事例についても、マクロ的なヴィジョンの中に位置付けて冷静かつ客観的に検討すべきなのである。 法は、人間の行動を規制・規整するための規範、仕組みであり、自由に対する拘束(刑罰等)という要素をも含む。しかし、そうした拘束については、適切に、また、できる限り謙抑的に行使されなければならない。それが近代法の大原則だ。 ミクロ的な見方をすれば、殺人被害者の家族の多くが、特に当初は加害者の死を望むのは、人間の感情として自然なことであろう。しかし、そこから短絡的に死刑存続当然肯定、現実の執行も継続という結論に至ってしまうと、制度論やその基盤にある憲法的な価値観、また社会科学的志向をないがしろにすることになりかねない。 さらに、人間や社会がもつべき慈悲の心ということもある。これは、現代キリスト教倫理の一中核、その最も価値ある部分といえるし、仏教思想は、さらに先行して、慈悲の心を強く説いていた。 実をいえば、仏教の経典は専門家しか知らなくとも仏教思想のエートス自体については深くとりいれた日本社会は、元々は、厳罰主義のそれではなかった。 たとえば、平安時代には、約350年間もの長きにわたって、死刑執行の停止されていた期間があった。もっとも、実際には、国司等による処刑や戦乱の中での処刑はあったようなので、死刑の停止は朝廷による国家レヴェルのことではあった。しかし、それにしても、前近代においてこれほど長期間基本的に死刑が行われなかった例はあまりないという。 戦後でも、私が子どもだった1960年前後には、人々は、よく、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を使っていたものだ。祖父母や父母は、日常生活の折々に、無味乾燥な説教というかたちでなく、人を許すべき理由として、子どもたちにそれを説いた。それは、いわば、日本人の素朴な性善説の、最もすぐれた、また、生きた成果でもあった。 私が小学校半ばくらいのことだったと思うが、当時人気のあった『七人の刑事』というテレビドラマに、こんな一話があった。 「記憶喪失になった男が、ひたすら、『死刑廃止』のみを訴え続けているため、殺人事件の容疑者ではないかとして捜査が行われる。しかし、実は、男は、死刑の執行に当たっていた刑務官の一人であり、その仕事から受けたプレッシャーと心的外傷によって記憶を失ってしまったことが判明する」というものだ。 子ども時代の記憶だから、細部は違っているかもしれない。しかし、死刑執行官の目から死刑制度をとらえる視線の鋭さとそれがもつ意味とは、子どもだった私にも、十二分に伝わったのである。 1960年代の前半、まだ戦後の名残の社会不安が尾を引く不安定な時代にあっても、当時の人々は、そうしたことを考えていたのである。
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