日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だという「意外な事実」
犯罪と刑罰に関する日本人の法意識
本章の結びとして、犯罪と刑罰に関する日本人の法意識につき、まとめの考察を補っておきたい。 犯罪と刑罰に関する日本人の法意識は、一般的にいえば、かなり素朴なものだ。試みにインターネットからこれに関連する記述を拾い上げ、整理してみると、たとえば以下のようになる。 「法律(刑罰法規、広義の刑法)を破ればそれはすなわち犯罪(悪いこと)であって処罰されるべきだ。国家が設定する犯罪の枠組みは、基本的に正しく、疑う余地のあまりないものだ。インターネットに心ないことを書き込むのはよくないから、侮辱罪の厳罰化、拘禁刑の導入もやむをえない。ほかの人を直接傷付けないことでも自分を害する可能性があれば犯罪としてよく、とりわけドラッグ摂取のような『反社会的』な行為についてはそういえる。悪いことをした人が刑務所に入るのだから、そこにおける処遇が受刑者の自由を強く制限する方法で行われていても、また、社会復帰に必ずしも役立っていなくても、やむをえない。そういう人々は、まずは『秩序』を叩き込まれるべきだ。殺人は、犯罪の中でも特に悪いことなのだから、死刑もやむをえない」 こうして、言葉を補いつつ整理したものをまとめて読むと、不快に感じる方がいるかもしれない。しかし、私の元裁判官としての実感からしても、おおむね以上のようなところが、平均的な日本人の犯罪と刑罰に関する法意識とみても、それほど誤ってはいないのではないかと考える。 犯罪と刑罰に関する日本人の法意識は、素朴であると同時に、やや硬直的でもある。「犯罪は一種のケガレであり、犯罪の疑いをかけられることすらケガレである。火のないところに煙は立たない」。日本人の犯罪と刑罰に関する法意識のうち無意識に近い部分には、そうした感じ方さえうかがわれる場合がある。 このような、無意識レヴェルに根付いている可能性のある法意識は、その源流をたどれば、おそらく、近世以前にさかのぼることができよう。これについては、江戸時代の裁判の実際を、当事者の座る座席に示された身分秩序という観点から詳細に論じた書物に衝撃的な記述がある(尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代──「身分の上下」はどう可視化されたか』〔NHK出版新書〕)。その部分を私の言葉でまとめ直してみよう。 「お白洲において一般的には砂利の上でなく縁側に座ることを許されていた身分(武士、僧侶等)の被疑者も、未決勾留を命じられるとともに、突然縁側から地べたの砂利に突き落とされて縄で縛られる。ここには、嫌疑を受けること自体を『罪』とする江戸時代の人々の見方が表れている」 現代のメディアも、次の章に記すとおり、たとえば特捜検察や警察による逮捕があっただけで、あたかも有罪判決が確定したかのように決め付ける報道をすることがある。私は、こうしたメディアの姿勢に、江戸時代の人々の法意識に通底するものを感じる。 『現代日本人の法意識』第7章で論じる「大岡裁き」幻想等の司法に関する各種の幻想に象徴されるように、日本人、少なくともその相当部分の心の深層には、お上が裁くことにまず間違いはないという意識と、権力、権威に逆らってみても無力であるという諦念とが、不分明なかたちで混在しているように思われるのである。 『現代日本人の法意識』第5章でも論じるとおり、近代刑事司法の原則は、「疑わしきは罰せず」だ。しかし、日本では今なおこれは単なるスローガンにとどまり、刑事司法の現場では、これとは逆の「疑わしきは罰す」という「推定有罪」がまかり通っている。少なくともそうした傾向が強いことは否定しにくい。そして、中世的とも批判される推定有罪の思想や人質司法の慣行がいまなお継続していることについては、江戸時代から連綿と続く犯罪と刑罰に関する日本人の古い法意識が、深く関与しているように思えてならないのだ。 こうした点では、日本は、やはり、「消化しておくべき近代のエッセンス」を未だ十分に消化していないと感じられるのである。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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