「配属ガチャ」は平安貴族にもあった。藤原為時の「越前赴任」とは?【大河ドラマ『光る君へ』#20】
【史実解説】為時のおどろくべき出世の背景とは?
紫式部の父・為時は無官の日々が長く続きます。漢学者として高く評価されていたものの、貴族としての出世には恵まれませんでした。 官職がない期間は詩会や歌会への出席で受け取れる禄が一家の主な収入源であったと考えられています。 長徳2年正月25日の除目で、為時は官職を10年ぶりに得ます。当初は淡路島国に任じられたものの、人気のある越前に3日後には変更になりました。 この背景には、道長や一条天皇が関わるという説が有力です。為時は淡路島への赴任に納得できず、一条天皇に「苦学の寒夜は紅涙が袖をうるおし、除目の翌日は蒼天が目にある」と書いた文を送りました。この文に一条天皇は感動し、越前に替任したといわれています。 史実においても、為時の越前への赴任は漢文の才を期待するものでした。この地には外交施設があり、大陸から渡ってきた中国人も住んでいました。漢文に通じる為時であれば、彼らの対応もできると判断されたのでしょう。学問に心を注いできた為時の努力がようやく報われたのです。
平安時代もあったよ「配属ガチャ」。紫式部は越前において都を懐かしむ
現代においても都会で育った人にとって地方への配属はつらいことのようです。若い世代の中には配属先を「配属ガチャ」と揶揄する人もいます。 誰もがうらやむ大手企業への入社が決まったとしても、配属先が思うような場所でなかった場合は、「都会で暮らしたい」という思いを抱えながら鬱々とした日々になることも...。 都会人が都を好むのは平安時代も同じで、ザ・都会っ子の紫式部もそのひとりでした。彼女は越前へ向かう途中、琵琶湖で舟に乗るなど貴重な体験の機会にも恵まれます。しかし、道中も心は都にあり、時々ぼやいていたよう。 紫式部が越前に滞在中に詠んだ歌は見つかっていません。その背景として、外出の機会が少なかったからとも考えられています。福井県は雪が降りますし、冬の気候が身に堪える地域性も関係しているのかもしれません。 余談ですが、疫病が流行っていた当時、武蔵守に任命されたある国司は「武蔵のような田舎はいやだ」と言って、現地まで行かずに都で生活していたそうです。国司にはその土地をよりよくするために率先して働く役割があるはずなのに、そんなことを言われては困りものですね。 ちなみに、為時は越前で勤めをしっかりと果たしています。生真面目で、努力家な彼らしいですよね。 ▶▶つづきの【後編】では、平安時代は今の大学にあたる機関の学費が無料だった⁉…についてお伝えします。 参考資料 倉本一宏 (監)『大河ドラマ 光る君へ 紫式部とその時代』 宝島社 2023年
アメリカ文学研究/ライター 西田梨紗