阪神甲子園駅、今も残る「路面電車」の痕跡 虎ファンなら知っている?球場横を南北に走っていた「甲子園線」とは
ここで問題となるのが、鉄道の輸送力だ。今でこそ阪神の列車は6両編成(近鉄に乗り入れる快速急行の一部は8両編成)だが、当時は2両連結運転が開始されたばかりで、車両自体も小ぶり。1列車あたりの輸送力がはるかに小さいため、阪神は臨時列車を大増発することで乗り切ろうとした。ただし、そのためには車両を甲子園駅近くに待機させておく必要がある。 ■今も残る分岐線の跡 実は、その留置線の痕跡が今も残っている。甲子園駅の北側に回ると、高架構造物の一部が不自然な形状となっているのが確認できる。
かつては本線と分岐した線路がここから北に延びる形で地上へ下り、さらに折り返して南側へと続いていた。野球などのイベント開催時はここに車両が待機し、試合の進行や観客の状況に応じて本線に進出。臨時列車が何本も大阪方面に運行されたのである。 一方、この線路は球場と駅が開業した2年後の1926年に別の役割も担うようになる。阪神は甲子園エリアで宅地開発を進めており、その住民の足として甲子園駅から南に延びる路面電車を同年に開業。この甲子園線は前述の留置線を活用する形で建設され、ここを走る車両は分岐線を通って本線から送り込まれた。
甲子園線が通る県道、通称「甲子園筋」はかつて枝川という武庫川の支流だったが、武庫川の改修工事によって枝川は廃止となり、河川敷を含めた一帯の土地が阪神に払い下げられたという経緯がある。甲子園球場はこの枝川と申(さる)川の分流地点に建てられたものだ。 ■甲子園線と国道線 甲子園線は1928年に甲子園筋を北上する形で上甲子園停留場まで延伸開業。前年に開業した国道線とつながり、やがて両線は一体的に運営されるようになった。
高度経済成長期になると、国道2号を走る国道線は渋滞に巻き込まれるようになり、遅延が常態化。もともと並行して走る阪神本線の補完的役割だったこともあり、1970年代には日中の運行が約50~60分間隔にまで減らされた。 だが、利便性の低下が乗客のさらなる減少を招いた結果、1974年には上甲子園以西が、そして翌年には上甲子園以東が廃止され、国道線は全廃となった。 ここで困ったのが、甲子園線の処遇だ。甲子園線は沿線住民の利用が多く、日中でも12分間隔で運行されていた。収支も悪くはなく、積極的に廃止する理由は皆無である。