安保政策麻痺させた「55年体制」 国益害す重要な憲法解釈の変更、自民党と社会党の裏取引で決定 国会答弁によって〝国是〟に
【兼原信克 日本の覚醒】 ヘンリー・キッシンジャー博士(元米国務長官)は、名著『国際秩序』(日本経済新聞出版)の中で、日本は形だけ冷戦を戦っていたと酷評した。 【写真】かつて社会党本部が入っていたビル 実際、日本の安保政策は、戦後日本政治を決定づけた「55年体制」によって、ほぼ麻痺(まひ)させられていた。1955年に、日本社会党が立ち上がった。まだ、高度経済成長前、医療保険も年金もなかった時代である。共産主義、急進的社会主義の影響は大きかった。 しかし、52年、サンフランシスコ平和条約で吉田茂首相が、ソ連を除くほとんどの国々とサンフランシスコ平和条約を結び、旧日米安保条約を締結した。60年、岸信介首相が、旧安保条約を、同盟国によりふさわしい新日米安保条約へと改定した。 戦後日本が「西側の一員」となる礎石を敷いた。ソ連に忠誠心を向けた社会党などの革新政党の反発は激しかった。10万人のデモが国会議事堂を取り囲んだ。岸首相は退陣した。 その後、自民党政治は変質する。 吉田学校の卒業生は、多くが戦略観の薄い経済官庁の幹部だった。彼らは羹(あつもの)に懲りたように安保問題から目を背け、高度経済成長、福祉国家建設に邁進(まいしん)した。その一方で、革新政党は執拗(しつよう)に日米同盟と自衛隊の弱体化に固執した。その結果、憲政の常道を逸脱した、奇妙な風習が永田町に生まれた。 佐藤栄作政権まで、「ベトナム戦争には派兵しません」という国会答弁をしていたが、いつのまにか集団的自衛権は行使できないという答弁に変わった。重大な憲法解釈の変更に際して、一片の閣議決定もなかった。 90年代になると、集団的自衛権行使と一体化する活動までできませんという答弁に変わった。佐藤首相の「武器輸出三原則」は、三木武夫首相の時代に、なぜか米国を含む全面武器禁輸に変質した。「非核三原則」もそうである。最後は核搭載艦の領海内通航を拒否するとまで答弁した。 赤坂の料亭で、毎夜、国会対策を裏取引するうちに、自民党側がずるずると引き下がった結果である。それがどれほど、その後の国益を害したかを知るべきである。