「ソガ・ヒトミ」その存在に驚愕した日本政府 曽我さんは自責の念を抱えて帰国した 「若い人にこそ知ってもらいたい拉致問題」(後編)
しかし、周囲の働きかけなどもあり、5人は「日本で家族を待つ」と意思表明。曽我さんも父親や友人らと過ごす期間は伸びたが、今度は北に残る家族のことが気がかりになった。「向こうは向こうで私の帰りを待っている。家族に日本での正しい情報がきちんと伝わっているのかも心配だった」 約2年後の2004年になって夫チャールズ・ジェンキンスさんと娘2人とインドネシア・ジャカルタで再会することができた。曽我さんは家族のために日本米を用意した。娘たちは喜んだ。「お米って白いんだね」「おかずが無くてもごはんだけで食べられるね」。 北朝鮮で食べていた米は何年前に収穫されたか分からないようなもので、とうもろこしの粉をこねて生地を作り、パスタやうどんの代用品として急場をしのいだりしていたためだ。 ▽日本での家族との生活と、別れを経て 日本に移った一家は、佐渡市で生活を始めた。曽我さんは同級生や地元の支援者らに支えられながら、24年ぶりの日本の生活に慣れていった。日本語が初めての夫や、北朝鮮で生まれ育った娘たちも、周囲の助けを得て生活を営んできた。
「時間はかかりましたけど、なんとか皆家族が帰ってくることができてすごく嬉しいし、ありがたいし。でもここに母がいなきゃなと思う。幸せである分、母のことを2倍も3倍も考えてしまう」 時が流れ、父親は妻に会えないまま2005年に死去した。夫のジェンキンスさんも2017年、77歳で死去。2人の娘は自立し、現在はそれぞれの家庭を持っている。曽我さんは「母ちゃんを取り戻す」という思いで、拉致被害者の早期帰国を訴える署名集めと講演活動を続けている。 母は91歳の誕生日を迎えた。自分の身を支えるのも大変なのではないか。日本では考えられないような生活を送っているのではないかと心配は尽きない。 「拉致という事件がなければ、特に代わり映えのない日常生活を送り、ともに年を取り、孫に囲まれ、幸せな老後を送れているはずなのです。そんな未来を、私にも母ちゃんにもあった希望、夢を絶ちきった拉致という犯罪は、生涯許すことはできないです。だからこそ拉致問題を一日も早く解決してほしいと強く願っています」