「ソガ・ヒトミ」その存在に驚愕した日本政府 曽我さんは自責の念を抱えて帰国した 「若い人にこそ知ってもらいたい拉致問題」(後編)
この時、日本側も曽我さんの存在に驚愕していた。小泉純一郎首相(当時)と金正日総書記(当時)による第1回日朝首脳会談で、北朝鮮側は5人の生存者を伝えてきた。5人目として明かされた「ソガ・ヒトミ」の名前は、それまで日本政府が認定していた拉致被害者13人に含まれていなかったためだ。すぐに新潟県佐渡市で母親と共に失踪したとされていた曽我ひとみさんと判明したが、曽我さん母子は、日本国内でも忘れられた存在だった。 「当時はすっかり日本語を話せなくなっていたので、通訳を介してのやりとりがあった。心の中では、自分が『曽我ひとみ』であることを日本語で叫んでいた。一つ一つの質問がもどかしい。早く私を『曽我ひとみ』だと認めてほしいと気持ちが焦っていた。どのくらいの時間が経っただろう。調査団の人達が『曽我ひとみ』本人であると認めてくれたのだ。その時の嬉しさは今も忘れていない」 ▽母の写真を見せられ「この人は誰ですか」
しかし喜びもつかの間、大きなショックを受けることになる。政府調査団から、母ミヨシさんは行方不明と聞かされたのだ。 「あり得ない。『母は日本で元気にしている』と(北朝鮮の)組織の人は言っていたのですが、24年ぶりの情報は私の心のよりどころを粉々に砕いてしまったのです」 そして、調査団からある女性の写真を見せられた曽我さんは「誰ですか」と質問をした。 「『あなたのお母さんですよ』と言われ、絶句してしまいました。あれほど恋い焦がれた母の顔が分からなかった。24年間思い出のなかの母の顔は誰だったんだろうか」 「曽我ひとみ」と認めてもらった自分が、最愛の母の顔を忘れている。強烈な自責の念を抱えたまま、日本へ向かうことになった。 ▽一時帰国のつもりが「帰らない」ことに 当初は1週間ほどの一時帰国の予定だった。帰国した5人はみな、子どもたちを北朝鮮に残していた。曽我さんも夫と2人の娘を残している。曽我さんも父親や妹、友達、近所の人に会い、再会を喜んだ後に、再び別れを告げる予定だった。