「あの人って誰かのお父さん?」 箱根駅伝「東大・給水おじさん」が“場違い”な現場で思っていたこと
今年の箱根駅伝で、ひときわ注目を集めた“給水係”がいる。関東学生連合メンバーとして9区を走った東大大学院の古川大晃選手(29)に並走し、ペットボトルを手渡した初老の男性。その正体は、運動生理学の第一人者として知られる、同大学院の八田秀雄教授(65)だった。白髪をなびかせて力走する姿に、ネット上では「目頭熱くなる」「今年のMVP」など賛辞が送られたが、権威ある大学教授がなぜ給水係に抜擢(ばってき)されたのか。八田教授が語った“給水おじさん誕生秘話”とは。 【写真】65歳とは思えぬ、八田教授の脅威の脚力 * * * 「博士課程4年でやっと箱根を走れた古川を差し置いて、給水係の僕が話題をかっさらってしまって、本当に申し訳ない」 取材開始早々、八田教授はバツが悪そうに笑った。 八田教授は、運動時のエネルギー代謝に関わる“乳酸”研究の大家で、東大と同大学院の陸上運動部部長でもある。自身も東大陸上部OBで、現役時代は400メートルハードルの選手として活躍した。 1984年、東大は箱根駅伝初出場を果たす。当時修士1年だった八田教授は、それまで長距離種目とは無縁だったが、陸上部コーチとして伴走車に乗りこんだ。 「これを機に長距離に関わるようになり、選手のパフォーマンス向上のための乳酸研究に足を踏み入れました。ある意味、箱根駅伝に人生を狂わされているんですよ(笑)」 筋肉が糖を分解して作られる乳酸の血中濃度は、気温や精神状態に左右される心拍数よりも正確に、肉体の疲労度を測ることができる。最適な強度のトレーニングメニューを組むため、八田教授は選手から採血し、ピペット(少量の液体の計量や移動に使われる実験器具)を使って手作業で乳酸値を計測していた。
現在は測定器の普及により、乳酸値を練習に活かすアスリートは珍しくなくなった。八田教授は、「偉そうに言えば、乳酸の活用法を日本に広めたのは私かなと思います」と、控えめに胸を張る。 ■古川選手は「どこか抜けていて面白いやつ」? しかし、東大が箱根に出場したのは、後にも先にも84年の1回だけ。八田教授にとって、箱根は長らく「見るだけの大会」だったが、近年は学生連合メンバーに選ばれる学部生の選手が出てくるようになり、沿道での応援にも熱が入った。そして今年は初めて、大学院生である古川選手が選抜された。 八田教授によると、古川選手は「すごく真面目だけど、どこか抜けていて面白いやつ」。昨年10月の箱根駅伝予選会では、本番前にコーヒーを買いにコンビニに寄り、あわや遅刻するところだったという。 レースが始まると、序盤から飛ばして一人でアフリカ人選手たちに食らいついた。このペースでは、早々にスタミナが切れて脱落する。誰もがそう思ったが、古川選手は最後まで持ちこたえた。 「初めは、あいつまたバカなことをやりやがって! と慌てましたよ。でも、彼の今年の箱根に対する執念を思い知りました」(八田教授) 古川選手は2022年と23年の箱根駅伝でも学生連合入りしたが、当日の出走メンバーに選ばれず、24年は学生連合チーム自体が編成されなかった。諦めきれずに博士課程の卒業を1年延ばし、ようやく箱根への切符をつかんだ。 その念願の大舞台で、八田教授は古川選手から“給水係”をお願いされた。大学院チームは学部チームと違って人数が少なく、当日はみな交通整理に駆り出されてしまい、他に頼める人がいなかったのだという。八田教授は市民ランナーではあるものの、不安をぬぐえなかった。