小林雅英は「打たれてもベンチのせい」という無責任の境地で抑えに転向 「幕張の防波堤」の異名をとる絶対的守護神となった
小林にとって初めてのセーブシチュエーションは、嫌々マウンドに上がるなど、仕方なく臨んだものだった。まして、3対2とリードはわずか1点だった。それでもなんとかゼロに抑えて、プロ初セーブを挙げたのだが、ウォーレンは前年に最優秀救援投手のタイトルを獲っている。普段からブルペンで抑え投手を間近に見て、手本にできるところはなかったのだろうか。 「結局、抑えの彼より僕が先にブルペンを出ちゃうんで、8回から9回までの過ごし方はあんまり見ることがなかったですね。ただ失敗した時は、ベンチ裏の折れたバットが積んであるところから一本持ってきて、ロッカーでそこらのモノを殴っている音が聞こえてきたり、暴れたり......そうやってスッキリして帰ってくるところは見ていましたね。 あと登板間隔が空くと、試合が終わり、ちょっと照明が落とされたなかでランニングしたり、ブルペンキャッチャーの人と強い球でキャッチボールをしたり......そういうルーティンは見ていたんです。だからウォーレンの人間性はどうかわからないですけど、抑えという役割に対する責任感はすごく持っていた。逆に、今の自分にはそこまでできないなと。もう無責任の境地ですよね」 抑えとなった小林は14セーブを挙げ、失敗はなし。その原動力が"無責任の境地"だった。 「チームの勝利だとか、勝ち投手の権利だとか、ほかの選手の成績とか考えていたら、もう重すぎて......絶対自分のパフォーマンスはできないと思っていました。『ベンチのせい、俺は手を上げていない』っていう無責任の繰り返しで、2000年のシーズンは終わりました」 (文中敬称略) つづく>> 小林雅英(こばやし・まさひで)/1974年5月24日、山梨県生まれ。都留高、日本体育大、東京ガスを経て、98年のドラフトでロッテから1位指名を受け入団。2年目以降はロッテのクローザーとして活躍。2005年は最多セーブのタイトルを獲得するなど、チームの絶対的守護神として「幕張の防波堤」の異名をとった。通算200セーブを達成したあと、MLBのクリーブランド・インディアンス(現・ガーディアンズ)に移籍。帰国後は巨人、オリックスでプレー。11年に現役を引退し、その後はオリックス、ロッテでコーチを務め、19年は女子プロ野球の投手総合コーチに就任。21年から24年まで社会人野球のエイジェックで投手総合コーチを務めた
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki