新しい物部氏像─軍事氏族ではなかった!?政治一族でもなく、職業集団が本来の姿?─
■軍事氏族とは考えられない⁉物部という職業集団 物部氏は継体紀に麁鹿火(あらかひ)が武人として登場するから、軍事氏族と考えられがちである。しかし、古代において純粋な軍事氏族は存在しない。なぜなら軍事専門氏族を有する王権が存在したとは思えないからである。むしろ勢力をもっていた王権あるいは権力主体は、全体が軍事に強い集団であったといえるであろう。その意味では、越国から大和に侵攻した継体は、彼自身が軍事的に優勢な勢力であったといえよう。 物部氏にも軍事的ではない人物がいる。継体23年3月条に登場する物部伊勢連父根(いせのむらじちちね)は百済への使者として記されている。守屋(もりや)の父・尾輿(おこし)も政治家としての記録しか『日本書紀』には記されていない。ただし、守屋に関しては用明2年の五月条に「物部大連が軍衆、三度驚駭(とよも)す」と記されており、守屋が私軍を率いていたかのごとき印象を受ける。 しかし蘇我馬子に関しても、同年7月に諸王子と群臣とに諮(はか)って守屋を討とうとした時に、「倶に軍兵を率て、志紀郡より渋河の家に到る」とあり、やはり軍兵を率いている。これに対しては、守屋は「親(みづか)ら子弟と奴軍とを率て」戦ったとある。 守屋軍は「軍衆」ではなく、親族と奴隷集団だけで戦っているのである。これが事実であるならば、守屋自身は軍事氏族とは考えられない。 物部氏について、篠川賢氏も「王権の祭祀に関わる物の生産を本来の職掌とした物部には、はじめから種々の集団が存在した」(『物部氏 古代氏族の起源と盛衰』)と述べる。そもそも古代氏族を一つの性格で捉えようとすることに無理がある。物部がもし職業部が基本であるならば、一氏族とはいえない。いろいろな人々が物部という職業集団に属していたと考えるべきであろう。まして複姓物部を同一氏族と考えるのは困難である。複姓には、物部弓削連のように「物部+某」の系統と、来目物部のように「某+物部」の系統の二つがある。これを直木孝次それゆえ、守屋も「物部弓削守屋大連」と表記されているゆえ、弓削集団の中の一員で物部に属している人物と捉えるべきではなかろうか。その意味で、麁鹿火が「物部大連麁鹿火」としか書かれないのは、「氏」名がないのと同じである。大王家だけが無姓なわけがなく、多くの人はもともと無姓であった。氏に関しては、国史大辞典に「父系の血縁集団を示す語。ただし古代一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、朝廷に奉仕する有力者を中心とする血縁集団を示すのに用いられ始めた言葉」と書かれている。そして「物部・中臣・忌部・土師・膳などは職業を氏の名としたものである」とする。 この規定では、朝廷に関与しない人々は「氏」名を持たないことになる。そして職業がどうして氏になるのかは説明されていない。 古代氏族という言い方があるが、それはいったい何であろうか。物部弓削というのは、物部という職業に就いている弓削地域の住民を意味する。その中の守屋という人物が大連という地位についている場合、「物部弓削守屋大連」と呼ばれたのであろう。 ところが、飛鳥末期になると「氏」が誕生してきて、奈良時代には一般化する。そして過去の人々にも「氏」があったかのような表現をするようになる。物部も「氏」名として意識されるようになり、系譜的に描かれるようになる。奈良時代には藤原氏が世襲化をはかりだし、系譜も世襲制的に作られるようになる。そうした発想のもとに『日本書紀』も描かれてくる。そうして本来、母系制社会だったものが、父系性社会に変化するようになってくる。 今後、古代において「物部」と冠している人物を物部氏として理解するのが正しいかどうか考え直す必要があろう。 監修・執筆/中村修也 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部