伝説のドライバーが語る、モンスター誕生秘話|アウディ・スポーツ・クワトロ【後編】
この記事は【歴史に残るモンスターが降臨|アウディ・スポーツ・クワトロ【前編】】の続きです。 【画像】若き日のハラルト・デムトと、峠を走るアウディ・スポーツ・クワトロ(写真7点) ーーー ●ハラルト・デムトは語る 読者の皆さんは以前の『オクタン日本版」(Vol.15)で取り上げたハラルト・デムトを覚えているだろうか。ノルディックスキーのジャンプ台を駆け上がる有名なTVコマーシャルでアウディ 100クワトロを運転していたドライバーである。彼はまた有名なラリーストでもあったが、クワトロの開発計画でも重要な役割を担った男だった。 「あれは1978年のことだ。ラインハルト・ロードがオペルからアウディに移籍してきた。彼は親しい友人で、その頃ターボとか、4WDとかの噂が聞こえてきた。当時私はVWチームのドライバーだったが、もともとバヴァリア生まれでインゴルシュタットは近かった」とハラルトは振り返る。彼は私が覚えている姿とまったく変わっていなかった。フレームなし眼鏡の奥の目は輝き、健康そうで陽気だった。アルプスでの自転車旅行に向かう前にビデオ電話に応える時間を作ってくれたのだ。 「私は1979年の1月1日からアウディ入りした。その頃はまだアウディ・スポーツが設立されていなかったので広報部との契約だった。4人のメカニックが地下のワインセラーで車を組み立てていた。一緒に行ったフレディ・コトゥリンスキーは1980年のパリ・ダカール・ラリーを制した男だった」 パリ・ダカールで優勝したその車が、実はアウディが開発したVWイルティスだった。最初の真の"クワトロ”は、5気筒ターボを搭載し、180度回転させたフロントアクスルをセンターデフとプロペラシャフトとともにリアに積んだアウディ80だった。 「我々はその車をアルジェリアでテストした。ある時運転中に出火して、車が全焼してしまった。その翌日、フェルディナンド・ピエヒがやって来たのだが、試乗してもらう車がなかった。「どうして火を消さなかったんだ?」と詰問されたので「生きてるだけで幸運だったんだ』とやり返した。その後すべての車は消火器を装備することになった」 プログラムの最初からこれは凄い車になるとの予感があったという。 「ラリーを変革する車になるとの確信があった。4WDであることだけでなくエンジンもパワフルだった。我々はずいぶんと耐久テストを重ねた。夜間にアウトバーンで長距離テストを行ったんだ。「1000kmは走って来てくれ』とピエヒなら言っただろうね」 周知のとおり、ピエヒはフェルディナンド・ポルシェの孫に当たる人物で、ポルシェとメルセデス・ベンツで働いた後、1972年にアウディに加わった。2年足らずのうちに技術部門のトップとなり、1975年には取締役としてアウディをBMWやメルセデスと競い合えるブランドにする計画に取りかかった。その最初の手段が5気筒エンジンであり、アウディ100C3のようなエアロダイナミクス、クワトロ・システム、そしてそれをモータースポーツの現場で実証することだった。イルティスの4WD技術をアウディに移植しようというアイディアを思いついたのはエンジニアのヨルグ・ベンジンガーであり、その彼がラインハルト・ロードの前任者だったワルター・トレーザーに、モータースポーツでの価値を説いたのだった。 「問題があったとすれば、我々は誰にも相談できなかったことだろう」とハラルトは語る。「ターボや4WD技術については何も参考にするものがなかったので自分たちで考えなければならなかった。たとえばリアブレーキはどうすればいいのか?センターデフが備わる場合は、それが必要かどうかにかかわらず、前後に同じ制動力が発生する。我々のテストの大部分がサスペンションとブレーキに関するものだった。後にアウディ・スポーツのボスとなるユルゲン・ストックマーと1979年に初めてテストに出かけた時に、私は山ほど彼に要求を伝えたが、彼は『ストップ!君は速く走れたか、それとも前より遅かったのか?』と私の話を適った。改良を加えるたびに、しかもその内容を教えずに、私に同じ質問をした。10回に8回は速くなったと伝えたものだが、そうすると「素晴らしいテストドライバーだ!』と言ってくれたものだ」 プログラムがスポーツ・クワトロに進化した時、エンジニアは3種類の異なるホイールベースを開発したという。「我々は中間のホイールベースを選んだ。それが一番ハンドリングが良かったからだ。ウィング(E2のエアロパッケージ)は大きな進歩だったし、パワフルになったエンジンも素晴らしかった。それに見分けやすかった」 8年間にわたってクワトロ・プロジェクトに全力を注いだ男、そして最後の本格的なグループBクワトロのWRCとなった1986年のRACラリーにデイヴィド・サットン・チームから出場した男に締めくくりの言葉をもらうのが相応しいはずだ。「正直に言えば1984年の姿はあまり好きではない。オリジナル・クワトロのほうが美しいと思う。だがこの車は、ペブルビーチでトロフィーを勝ち取るのではなく、走って勝っために作られたんだ」まさにその通りである。 編集翻訳:髙平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Glen Weddington Photography: Audi
Octane Japan 編集部