「金型を作るのが高額です。240Zはダッシュ形状が4種類あって・・・」|アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方
ニッポン旧車への情熱を諦めきれなかったハコスカオーナーは 勤めていた会社をやめて、自らレストアショップをオープンしてしまった 【画像12枚】ニッポン旧車への情熱を諦めきれなかったハコスカオーナーは、勤めていた会社をやめて、自らレストアショップをオープンさせてしまった 【アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方】 これは驚いた。ニッポン旧車への情熱を諦めきれなかったハコスカオーナーは勤めていた銀行を辞め、自らレストアショップを開いた。ハコスカの足まわり改造を試みるも不満足に終わった経験、絶版パーツの入手困難さ、旧車を維持する苦労。これらの問題を解決するビジネスを始めると、思いもよらぬ需要があったのだ。 ハコスカというクルマの存在がアメリカで広く一般に認識されるようになる直前、早々にハコスカを手に入れたファンがいた。サンフランシスコ近郊に住むアイバン・ジャラミーロさん。ノスタルジックヒーローVol.146では、もう1台の愛車だったケンメリも併せて紹介してくれた。あれから9年。再びジャラミーロさんを訪ねると、当時勤めていた銀行はすでに辞め、自分の旧車ショップを始めていた。 「このショップ『ビンテージ・スピリット』を始めた当初は、日本旧車のレストアを主眼にしました。日本からキットを取り寄せてハコトラ(ハコスカフェイスのサニートラック)を作ったりとか。そんな成果を見た人たちから、日本旧車以外の修理を頼まれるようになったんです」 これはよくありがちな展開である。収入を得るため、頼まれるままに、ポルシェやフェラーリなどヨーロッパ車の修理をしばらくの間やり続けた。 「やっと日本旧車へ戻ってきました」 今の素直な気持ちをそう表現したジャラミーロさん。日本車への情熱が言葉と表情ににじみ出ていた。その間も自分のハコスカは走らせ続けていた。 「ある時アジャスタブルのサスペンションを入れたのですが、ハンドリングが全く気に入らなかった。改良するのに部品を外注しても納期ばかりかかる。それなら、と自分ですべてやることにしたんです。調べたら、日本ではS13系のサスを流用しているようだったので、アメリカで改造のできる業者を探しました。それを進めて、ダットサンの各旧車用を作ってアメリカや日本、それ以外の国のオーナーにも提供したんです」 絶版となったパーツをレストア用に供給するというビジネスアイデアを元々持っていました、と語る。 ここから始まったジャラミーロさん独自の検討。次はレストア用のダッシュボードを造る会社を設立!? ここからジャラミーロさん独自の検討が始まった。次はレストア用のダッシュボードだと考え、姉妹会社「ビンテージ・ダッシュ」を立ち上げると、ウレタンモールドの専門業者を探し出すため駆け回った。手探りの状態で試作を開始し、専門業者とともにダッシュボードについて学び、そして試作を繰り返した。その間には何百台に及ぶ240Zのダッシュボード形状と年式を調査した。 「ふたを開けてみると想像できないくらい需要が大きくて、さらに伸びているので製造が追いつきません。品物が入荷すればすぐに売れてしまうけど、一時的にでも大量に保管するスペースが必要です。場所が足りなくなっています」 ショップ内には作業の止まったクルマが並び、その透き間を埋めるようにダッシュボードの試作品が転がる。奥の棚にはすぐに売れてしまうであろう在庫品が一時的に積み上げられていた。 自動車が普及する前、まだ馬車ばかりが道を走っていた時代には、ダッシュボードといえば、御者の足元に添えられた幅広の板を指した。馬が跳ね上げる土などを避ける目的で、カクテルで言う「ダッシュ」と語源を同じくする「ピシャッとはねる」という意味だったようだ。自動車の時代になると運転手の目の前に設置された板がダッシュボードと呼ばれるようになり、さらに時代が進んで計器類(インストルメント)が必要になると、それがダッシュボードに取り付けられた。現代ではそのためインストルメントパネル(インパネ)とも呼ばれ、ダッシュボードとの定義の違いは不明瞭だ。 木の板に過ぎなかったダッシュボードが、現在のような成形ウレタンに取って代わられたのは1960年代後半のこと。遠因は化学工業と成形技術の発達で、直接のきっかけはアメリカの自動車安全対策だった。当時は自動車が衝突したときに、乗員に何が起こるかなどだれも知らなかったし、だれも気にしなかった。ラルフ・ネイダー弁護士による自動車の危険性の告発から、急速に製造者、消費者の間に安全意識が広まった。日本車で言えばダットサン・フェアレディがその影響を直接受けている。以来ウッドパネルは衝突時に危険であると見なされて使われなくなり、「ウッド調」のインテリアが高級感を醸し出した。 70年代製造のウレタン製ダッシュボードを、現代のモールド技術で再生することは可能だが、それでも克服するべき問題は残る。 第1の問題となるのは「型」だ。 「オリジナルのダッシュボードを元にしてそれから金型を起こしますが、1回目の試作ではウレタン素材のみです。その結果に形状の修正を加え、2回目の試作では必要な金具も挿入します。もう一度修正を加えて、3回目で商品になります」 第1の問題は「型」、第2の問題は費用だと話すジャラミーロさん そして、ジャラミーロさんは言う。第2の問題は費用だ、と。 「金型を作るのが高額です。240Zはダッシュ形状が4種類あって、シリーズ1の初期は(※)スイッチ用の穴が中央付近に2つ。70年中ごろには穴の大きさが変更になりました。シリーズ2になると十字状のへこみが穴の横に加わり、73年式ではメーター上部形状がやや丸く変わりました。こうした細かな違いがあるので、ビジネスとして成り立たせるには需要の多いモデルを見極めて作ることが必要なんです」 260Zと280Zも調査をして、こちらは同じ形状だと結論づけた。 「取り付け方法が240Zよりは格段に容易で、設計と製造ラインがこの時期に改善されたことを感じます」 80年代の車種になると状況が複雑になる。モールド成形のプラスチック部品(送風ダクトなど)がウレタン成形のダッシュボードの中に埋め込まれていて、これが技術的ハードルだけでなくコスト増にもつながるのだ。 「実は一番初めにトヨタのAE86系のダッシュボードを作ろうとしたのですが、難しくてできなかった。今ではAE86系や日産R32系も技術的には作れるようにしました」 再生できる種類を増やすべく技術的努力を続けている。残るは需要と製造コストのバランスだ。 ジャラミーロさんが愛車を盛んに走らせていた時期は、アメリカでのスカイラインブームの夜明けと言える時期だった。ハコスカとケンメリの両方をアメリカ国内で所有していたというまれなオーナーだったジャラミーロさん。愛車を走らせインターネットビデオなどを通じて日本旧車ブームをけん引する一人であり、スカイラインに魅せられたファンの間で一躍時の人となった。ただ、ビジネスが忙しくなった今、愛車を運転する時間がとれないことが悩みだという。 「ビンテージ・ダッシュを始めてからは仕事が急に忙しくなって旧車に乗らなくなりました。当時知り合ったみんなからは『アイバンは旧車シーンから突然消えた。音信不通だ』と思われているはずです」 そう言って笑う。それでもやっぱり旧車を走らせたい思いは強い。しかし今は養うべき家族がいる現実もある。 「日本旧車の価値が認められるようになって、コレクションにする人が増えたので、ダッシュの需要も多いんです。JDM(日本国内仕様車)フェアレディZ用も作っています。再生パーツの種類は毎月のように市場で増えていて、うちのうわさも広まってドイツ車のコミュニティからも問い合わせがありました」 絶版パーツの再生・供給という考えのもと、次は鋼板加工のできる業者を探してるそうだ。 「私も旧車コミュニティに貢献したいと思っている一人なんです」 ジャラミーロさんは、最後に言葉を添えた。
Nosweb 編集部
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