大河「光る君へ」で描かれた“道長の死”のその後。摂関政治が終焉を迎え、院政の時代へと突入
NHK大河ドラマ「光る君へ」は藤原道長の臨終をもって最終回を迎えたが、その後の展開が気になる視聴者もいることだろう。道長の後を継いだ頼通は実に50年以上にわたって実権を握る。だが、長く続いた摂関政治にもやがてピリオドが打たれて、次に院政の時代を迎えることになる。その過渡期にキーパーソンとなったのが、後三条天皇だ。どんな経緯で即位し、どんな改革を行ったのだろうか。連載の番外編として解説を行っていきたい。 【写真】摂関政治から院政時代の過渡期にキーパーソンとなった後三条天皇。写真は後三条天皇の陵
■摂関家の勢力をそいだ後三条天皇 天皇が幼いときには摂政を、成人してからは関白として、天皇を補佐するという名目で、実質的には主体となって政治を行う――。平安時代の中頃には、そんな摂関政治によって、藤原氏が政治の政権を運営していた。 摂関政治は、藤原良房が貞観8(866)年に皇族以外では初めて臣下として摂政に任じられて以来、天皇を退位した白河院が院政を始める応徳3(1086)年まで、実に220年にもわたって続くこととなった。
そんな藤原氏が実権を握る摂関政治に対して、摂関家の勢力をそぐことで実質的にピリオドを打ったのが、後三条天皇だ。どのような経緯で即位して、どんな政策を行ったのだろうか。 最終回を迎えたばかりのNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長にスポットライトがあてられた。道長にとって後三条天皇は「外曾孫(そとひまご)」、つまり自分の娘が嫁いで産んだ子どもにあたる。ややわかりづらいので、「光る君へ」の記憶がまだ新しいうちに、ちょっと整理しておこう。
摂関政治の全盛期を築いた藤原道長は、長女の彰子を一条天皇のもとに入内させた。2人の間には、敦成親王が誕生。一条天皇にとっては第2皇子であるにもかかわらず、道長は自分の孫であるという理由で、敦成親王を皇太子に据えさせている。 一条天皇の退位後は甥の三条天皇が即位するも、道長は三条天皇を退位に追い込み、敦成親王が後一条天皇として即位することとなった。 後一条天皇が即位するにあたっては、三条天皇の第1皇子である敦明親王が皇太子となるが、やがて三条天皇が亡くなり後ろ盾を失うと、自ら皇太子を辞退。そこには道長の圧があったに違いない。代わりに皇太子となったのが、同じく道長の孫で、後一条天皇の弟・敦良親王である。後一条天皇が死去すると、敦良親王が後朱雀天皇として即位する。