大河「光る君へ」で描かれた“道長の死”のその後。摂関政治が終焉を迎え、院政の時代へと突入
治暦3(1067)年、後三条天皇が即位する直前に、頼通は関白を辞職。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇と三朝にわたって摂政・関白に就き、51年も政権を維持した頼通が隠遁することとなった。 新たな関白としては、頼通の同母弟で、外戚になる可能性はない高齢の教通が就くことになった。後三条天皇は関白が政治に口出しすることのないように強い態度で臨み、即位してすぐに改革へと乗り出していく。 有能な大江匡房らを重用しながら、後三条天皇が行った政策の一つが「荘園整理事業」である。延久元(1069)年に「延久の荘園整理令」を発布すると、太政官庁内の朝所に「記録荘園券契所」を設置。荘園の所有者に面積や成立時期について報告させたうえで、一定の基準に合わない荘園を没収して公領としている。
たとえ摂関家に寄進された荘園でも、調査や廃止の対象になった。藤原氏を始めとした有力貴族の荘園に大きくメスを入れることで、荘園の正常化へと邁進している。 また、荘園整理の一環として、後三条天皇は年貢などを測る基準となる「宣旨枡」(せんじます)を制定。枡の大きさを全国で一定にすることで、財政の再建を急いだ。このときに決めた枡の基準が、後世まで広く用いられることとなる。 ■白河天皇の時代に 摂関政治にピリオドを打ち、積極的に親政を推進した後三条天皇。その政治は「延久の善政」(えんきゅうのぜんせい)と呼ばれ、後世でも高く評価された。
だが、即位してわずか4年と39歳の若さで後三条天皇は退位する。20歳の第1皇子・貞仁親王に譲位を行い、白河天皇が誕生することになる。摂関政治から院政へと時代は大きく変化しようとしていた。 【参考文献】 美川圭『後三条天皇 中世の基礎を築いた君主』(山川出版社) 笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』(中公新書) 倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
真山 知幸 :著述家