中身のない1on1に冷める若者の心理 「仕事で本音を言う必要あるのか」
「能力」以外で企業が社員を評価し、組織を運営することは可能なのか。組織開発を専門とする勅使川原真衣氏と考察を深めていく本連載。前回(「配属ガチャを嘆く若者よ、仕事ができないのは君だけのせいではない」)、そもそも日本企業に当たり前のようにまん延している「能力主義」とは何なのか、また希望の部署以外への配属を嫌がり、離職につながるとされる「配属ガチャ」の是非について解説した。今回は、昭和世代と若者世代との価値観の違いや、今や当たり前のように導入されているエンゲージメントサーベイ(意識調査)、1on1ミーティングの問題点についてひもといていく。 【関連画像】勅使川原 真衣(てしがわら・まい)氏、1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイ グループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ』(集英社新書)や『職場で傷つく』(大和書房)(写真=稲垣 純也) 前回、若者たちのジャッジが早くなっていて、成長の実感を得られないとすぐに辞めてしまうという話がありました。現在50~60代の昭和世代とはかなり感覚や感じ方が違うんだなと改めて思ったのと同時に、ますます今の若手のことが分からなくなりそうです。 勅使川原真衣氏(以下、勅使川原氏):育ってきた環境も違えば、時代背景も違うのですから、分からなくて当然なんですよ。いつの時代にも「イマドキの若者が分からん」という論争はありますし、逆に、同世代同士なら分かり合えている、というのも幻想ですよね。 ただ、いわゆる昭和世代は、企業中心社会における能力主義のど真ん中で生きてきたことは確かです。能力主義とは配分原理であり、「できる人」が多くをもらい、「できの悪い人」はもらいが少ないことに合意した状態です。企業も、メンバーシップ型雇用でざっくりと社員を集め、配属などを行う際に、「この人にはどんな能力があるのか」を基準に評価し、処遇を決めます。 企業が掲げる「望ましい人材像」に照らし合わせた「能力」を求められ、際限のない努力を強いられてきた人たちが昭和世代です。「能力主義」という靴を履かされ、足に靴擦れができるほど必死に頑張っても、その存在を承認されたのは出世街道に乗ったごく一部だったかもしれない。そのため、若者に対して、「存在を承認されるためには頑張るしかないのに、なんでそんな簡単に辞めるなんて言うんだ」と思ってしまうのも無理はありません。 昭和世代は能力主義以外の世界を知らないために、若者世代の新しい価値観が理解できない、ということでしょうか。「存在の承認」という言葉が出ましたが、確かに昔は、「仕事ができるヤツ」と会社で認められることこそが存在の承認だったかもしれません。今の若者たちはどうなんでしょうか? 勅使川原氏:私の仮説ですが、若者世代のほうが、「仕事が(生きる)すべて」と思っている度合いが低いのではないでしょうか。仕事以外にも趣味などでつながる有形無形のコミュニティーを持っていたり、日々様々な動画などのメディアで“面白い”ものと出合い続けていたりするわけですから。「自分ってやっぱりこれが好きだなぁ」とか「この場だけは自分を出せるなぁ」と思える場面が多元的にあるのではないかと感じています。能力主義は今もなお連綿と続いているものの、会社で評価されることだけを狙って生きていない。自分が承認される場を見つけているし、見つけようとしているのではないかと。 そんな世界観の違いを差し置いて、昭和世代は、若者の本音を聞きたくて飲みに誘ったりするわけでしょう? 若い人たちは本音なんて言いませんよ。極論すれば、本音なんて開示し合わなくても、仕事は一応、回りますから。若い世代は、「お互いに本音を言い合い、理解し合えば仕事もしやすい」なんていう思い込みにとらわれず、非常に現実的に、淡々と仕事をしているのではないかと思います。だからむしろ、昭和世代は、「本音」という幻のようなものを聞こうとすることで、自分が本当は何を求めているのかを自問自答すべきです。 「会社で能力を証明しないと存在が承認されない」という価値観がすでに変わっているということを、昭和世代の上司たちは理解する必要があるということですね。ただ、これまで皆さんが頑張ってきたことを否定したりはしません。かつては、その価値観しかなかったし、それが社会の「正解」でしたから。それこそ、汗と涙の結晶だったと思います。 「それしかなかった」と言われると、ちょっと救われますね。 勅使川原氏:今みたいに、「私は私らしく、必要に応じて、休みながら働きます」なんて口が裂けても言えない時代でしたよね。全身全霊で働くことが当たり前でしたから。ただ、社会が変わったことを理解せずに、いつまでも「もっと食らいついてこいよ」「泣きながらでも、歯を食いしばれ」なんて言って、若者たちをあおるのは、時代錯誤としか言いようがない。私もかつての職場で「バカ」だとか「使えない」などとののしられ、それでも続けてきましたが、今そんな“武勇伝”を若者に話すと、真顔で引かれますよ。若い方たちの多くはそもそも、感情的な振り幅や、いわば「感動」のようなものを職場に求めていないわけですから。またそれを、「今の若者は省エネ重視だよね」「タイパ、タイパって……」などと揶揄(やゆ)するのもお門違いでしょう。 自分たちが若かった時代は、能力を証明するために頑張るしかなかった。だけど、「振り返ってみれば結構つらいこともあったな」と自分の中で認めつつ、それを脊髄反射的に今の若い人にも求めるのは「違うよな」と立ち止まらなければならない。ただ、「自分は今も昔も猛烈に働いているし、仕事がつらいと思ったことはない」という人も、経営者を中心にいるかもしれません。『職場で傷つく』(大和書房)を出版した際に、いわゆるエリートサラリーマンからそう言われました。そういった人たちでも、「仕事でつらい思いをしてきた人も多かったのではないか」という仮説は受け止めてほしいなと思います。そこまで自己の強靱(きょうじん)さを誇るのであれば、人の弱さを受け止められるはずです。 確かに、昭和世代でも、自分の能力を証明しようと頑張って働いたけれども、出世街道には乗れなくてつらい思いをしたという人のほうが大多数かもしれません。 ●組織改善に生かされないなら、サーベイなんて意味がない 前回、突然退職してしまう「サイレント退職」や仕事への熱意を持たず、必要最低限の業務のみをこなすような働き方である「静かな退職」の話題が出ました。昭和世代からすれば、それが理解できない。「こんな会社、辞めてやるー! バーン!」といった辞め方のほうが分かりやすいかもしれません。 勅使川原氏:そう、自分たちが見たことあるものだから分かりやすいんですよね。一方で、「サイレント退職」や「静かな退職」は見たことがないから戸惑っているだけだと思いますよ。