なぜ阪神ドラ2左腕の伊藤将司は球団として37年ぶりの新人開幕3連勝を飾れたのか…”先人”池田親興氏が分析する理由
試合後に三浦監督がこう嘆いた。 「もちろん対策を立てて臨んだが、ストライクゾーンを広く使われ打ちあぐねた。粘り? 粘ることも必要。併殺が3つあった。そういうところですね」 頼もしい同期の援護もあった。 大山の登録抹消で新4番に座った怪物ルーキー佐藤が2打席連続のタイムリー。4回の先制タイムリーは、ショートをセカンドベース付近にまで動かした“佐藤シフト”をモノともせず、狭い二遊間を強烈なライナーで抜けていった。しかも代名詞のフルスイングではなく“軽打”に見えた。一発より4番としての役割を果たすための貴重な打点である。 伊藤も「テル(佐藤)が打ってくれると、自分の投球も楽になる。きょうはテルに感謝」と頼れる同期に最敬礼である。 開幕から3連勝。1日の広島戦では3回まで無失点に抑えながら雨でノーゲームとなったが、その不運にもめげなかった。阪神の新人投手の記録の扉を37年ぶりに開いた。 その37年前に5連勝を成し遂げている評論家の池田氏は最大級の賛辞を送った。 「素晴らしい。私の忘れていたような記録に光をあててもらって感謝している。私もそうだったが、彼は連勝というものは意識していないと思う。1試合、1試合、必死でやっている中で、結果がついてきているのだろう。37年前の私は開幕戦は中継ぎからスタートした。打たれたのに“次は先発だ”と言われ、“え?なぜですか”と、わけのわからないうちに連勝が5つ続いた。でも彼はレベルの高い先発が揃っている阪神投手陣の中でローテーの座を勝ち取り開幕を迎えている。高校、大学、社会人を経て入団した経緯は、私と同じだがベンチの期待も立場も違う。それだけの力がある選手だと思う」 横浜高ー国際武道大ーJR東日本を経てドラフト2位指名された伊藤と同様、池田氏も高鍋高ー法政大―日産自動車から“即戦力”として期待されドラフト2位で入団した。ちなみに1位は中西清起氏だ。 ルーキーイヤーの1984年開幕は中継ぎ待機。いきなり開幕の巨人戦の終盤のピンチで出番が回ってきた。打者は中畑清氏。池田氏は「スライダーを投げたかった」が、捕手の渡辺長助氏のサインはストレート。「先輩のサインにクビをふるわけにもいかなかった」とストレートを投げ、外野の間を抜けていく長打を打たれた。 「オレのプロ生活も終わった」と思っていた池田氏に当時の安藤統男監督から思わぬ先発指令が出た。5日後の4月12日の大洋戦に「先発せよ」というのである。 そこから5月11日の巨人戦まで5連勝。その巨人戦で一塁のベースカバーに入った際に打者走者に足を踏まれて骨折して戦線を離脱。記録が途絶えることになったという。