「俺は死ぬ係じゃないから」…「特攻隊」立案編成に深く関わった「男たち」が戦後にとった「あまりにも違う態度」
大西は十分に生きた
台湾に残っていたかつての副官・門司親徳は、8月18日、台湾の新聞に掲載された大西の遺書を読んだ。 「そのとき、私が最初に感じたのは、大西長官は、死んだというより十分に生きたのだということでした。戦争が始まるのも自然なら、特攻が出るのも、戦争に負けたのも全て自然な時代の流れのように思えて、涙も出ませんでした。 私の知る限り、長官は、俺もあとから行くとか、お前たちばかりを死なせはしないとか、そんなうわべだけの安っぽい言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の一人一人をじっと見つめて手を握っていた長官の姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているようでした。長官は、一回一回自分も死にながら、特攻隊員を送り出していたのだと思います」 門司は、昭和20年9月5日付で主計少佐に進級した。終戦後、大西中将の自刃が司令部で話題に上ったとき、高雄警備府参謀長・中澤佑少将(軍令部第一部長として特攻を裁可。のち中将)が、 「俺は死ぬ係じゃないから」 というのを聞いて、がっかりしたという。死をもって責任を償う気概のない将官が、軍令部で特攻隊の立案編成に深く関わり、ゴーサインを出した上に、台湾にあっては特攻隊の出撃まで命じていたのだ。結果的に大西中将が、特攻の責任を彼らのぶんまで一身に背負った。逆に言えば、特攻で多くの若者を死なせた責任を負うべき参謀や将官の多くが、大西に罪をかぶせたまま戦後を生き、天寿を全うした。 ――事象は違っても、「責任」にまつわるこういうことは、現代社会にもしばしば見られるのではないだろうか。大西夫人・淑惠は夫の遺志を継ぎ、特攻戦死者の慰霊行脚に生涯を捧げた(終戦の翌年「戦没者慰霊法要」を行う本堂に駆け込み「土下座」した小柄な女性の「まさかの正体」)。戦後、鶴見・總持寺の大西瀧治郎の墓には、生き残った元特攻隊員たちが供える香華が絶えなかった。(完)
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)