「民族共存」夢見た父は、あの日ハマスに捕らわれた ホロコーストから10・7奇襲へ―あるユダヤ人家族の物語
2022年にアレクサンダーさんが家族の歴史を振り返った映像記録では、2人の軌跡が語られている。 ある日、ユダヤ人迫害を危惧した1人の教師がモルデハイさんの元を訪れた。モルデハイさん夫妻に偽のキリスト教徒の身分証を手配し、さらにエディトさんをかくまうことができるというタタール人の一家も紹介してくれた。2人は現在のウクライナ西部テルノピリ郊外に移り、1944年に旧ソ連軍が解放するまでそこで過ごしたという。戦後、タタール人一家の元にエディトさんを迎えに行くと、離れ離れだったエディトさんは「あなたはママじゃない」と泣きじゃくった。 後年、このタタール人一家、マリア・アサノビッツさんとハリナ・アサノビッツさんはイスラエルから「諸国民の中の正義の人」賞を授与されている。この賞は「自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を救った非ユダヤ人」を顕彰する賞で、リトアニア・カウナスで領事代理として「命のビザ」を発給、多数のユダヤ人を救った日本の故杉原千畝にも贈られている。
モルデハイさんとニナさんはワルシャワに戻り、1948年にアレクサンダーさんが生まれた。同じ年、イスラエルが建国された。その国へ、一家4人は1957年に移住した。 マティさんは「多くの人の助けがなければ父は生まれていなかっただろうし、私も存在しなかった」と振り返る。 ▽民族間の「架け橋」目指して アレクサンダーさんはイスラエルで農業を続ける傍ら、ホロコースト研究や教育にも従事した。特に力を入れたのが、ポーランドとイスラエルの若者を中心とした交流事業だった。1986年に初めてアウシュビッツ強制収容所跡を訪問。その後、学生らを連れてアウシュビッツを訪問するツアーも実施し、ポーランド、イスラエル両国の学生らに歴史を講義した。エルサレムのホロコースト記念館「ヤド・バシェム」のポーランド担当部署に籍を置き、ホロコーストの歴史認識を巡り対立も発生する両国の架け橋として、民族間の対話を訴えた。