「自殺とは、他殺である」|河合優実主演・映画『あんのこと』を通じて戸田真琴さんが感じた、実在の人物を描くことの怖さと希望の光
悲しいことに、あまりにも身近にありふれているにもかかわらず、しかし、いまだセンセーショナルな扱いを受ける売春やDV、薬物中毒、自殺といった事柄について、必要最小限に、ファンタジーや制作サイドの願望を織り交ぜないよう留意しながら撮られているのがわかる。
この作品は、特定の結論や思想に誘導させるという手癖を、おそらく意識的に避けている。実在した“彼女”の尊厳を守りながら、「被害者」としての側面よりも彼女が「生きていた」という事実の持つ光の面を作品に残そうとしたのだろう。
死者と生者が混じりあい
亡くなった人は、フィクションをもってしても、決して完全に再生することはできない。死とは、その存在のすべてを読み解くためのチャンスや手掛かりを永遠に失うことである。しかし、“かつて、たしかに存在していた者”は、いまもこの世界に混ざって、残っている。そうした姿をできるだけリアルに再現するべく、監督はもとより主演の河合優実も担当記者に取材を行い、彼女を想像し続けることで「杏」は立ち上がってくる。 香川杏はもちろん仮名であり、新聞記事に載っていた彼女そのものでは決してないが、彼女はそこに混ざっている。そして、映画という形にパッケージングされる過程で積み重なっていった祈りが加わり、鑑賞者に彼女が見た世界を想起させるのだ。 あらゆる演出、カット割、演技、世界観の作り込み、差し込む光、捉え方、作品の隅々から「どうかこの映画の中でだけは、祈られていてください」という、亡くなってしまった彼女には届かないとわかっていながら祈らずにはいられない、切なる意思が伝わってくる。今もこうして生きている私たちの、その意思こそが地上を照らす光なのだ。生きてさえいれば、また光を見る日がやってくる。生きている限り、その可能性がまったくのゼロにはならない。そのことが鑑賞者たちへ伝わってしまうように、私もほんの少しだけこの映画に便乗して、祈ることにする。
他者への想像力を持たない人に、ほんとうの祈りは不可能だ。祈りとは、ほんの少しの想像と強い意思によってようやく成立する。優しさとはもちろん想像力のことだが、想像する能力とは、生来の才能のみによるものだろうか? 否、何を見て、聞いて、何を真剣に考え、どういう思考を培ってきたかによって、やがておおきく変わっていく。人は、進化し続けることができると信じている。今日より明日、もう少しだけ、強い祈りを持つことができる。経験が染み込んで、明日のあなたを今よりも少しだけ優しくする。人を愛せる人に近づいていくことができる。 自殺とは、他殺である。ありとあらゆるものごとや人々が絡み合った結果、殺されたのだ。その事実を自殺と呼んでいるだけだ。殺人の罪は、散らばっても散らばっても、途方もなく重たい。シンプルに裁くことが不可能になるほどに、複雑な手際によって実行された、他殺であることは確かなことなのだ。